誰にでもひとつやふたつ、心に残る忘れられない光景があると思う。
今日はそんな話を書いてみようと思う。
バレンタイン・デイだし。
それは私がまだ学生の頃の話である。
私は、とあるお菓子屋さんでバイトをしていた。
様々な土産物屋が建ち並ぶ場所で、そこで働く店員の約半数は私と同じようなアルバイトだった。
その中に一人だけ予備校生がいた。
滋賀大学を目指す男で、どういう理由かは聞かなかったが、学校からは少し離れた京都大学近くの学生アパートに下宿していた。
アパートと言っても、四畳半一間。風呂なし、共同トイレで、風化寸前の木造ぼろアパートである。
しかし彼にとってはそこは城みたいなもの。私もよく遊びに行って、夜通し語り合ったものだ。
ある日、私はいつものようにバイトを終え、非番のそいつの下宿に遊びに行った。
もちろん勉強の邪魔をするためである。
当時私はどこへ行くにも単車だった。雨だろうが雪だろうが夏だろうが冬だろうが関係なく。
真っ黒のフルフェイス・ヘルメットに黒の革ジャン。当然シールドも真っ黒。走り屋でも暴走族でもなかったが、風と一体になりたいなどとほざくやつとは、友達になれなかった。
要するに足だった。
屋根やラジオがないことに不便を感じたことはなかったが、ただひとつ難点があった。
腹が冷えるのだ。
その時も私は腹の調子が悪く、やつの下宿に着くなりトイレに行った。
女人禁制の下宿である。小用とは別の個室があるのだが、そこを利用するのは初めてだった。
ドアの前にスリッパが揃えてあった。私はそれを履き、ドアを開けた。
その時のことだ。私の目の前に信じられない光景が現れた。
蹲踞姿勢の男がいたのだ。
男は尻丸出しであった。しかも反対側の壁を向いて。
そこは剣道場でも体育館でもない。男は自分一人の至福の時を過ごしていたに違いない。
それなのに黒ずくめのヘルメット男にいきなりドアを開けられたのだ。蹲踞男はよほど驚いたのだろう。首だけこちらを向いて、蹲踞姿勢のまま10cmぐらい飛び上がった。声も出せずに。
その時の会話は以下の通り。
私(フルフェイス) 「あ、・・・」
男(尻丸出し) 「・・・」
私(フルフェイス) 「ああ・・・」
男(尻丸出し) 「・・・」
バタン。
私は友人の部屋に行くなり、ことの経緯を話した。
そいつの説明によると
1.ドアに鍵はない。
2.ドアの前にスリッパがあるときは中に人がいる。
この2つのシンプルなルール(?)によって秩序が保たれているのだそうだ。
さすがは京大生ばかりの下宿だ。
私は、そのまま履いてきてしまっていた蹲踞男のスリッパを返しにトイレに戻った。
ノックをしたが、返事がなかった。
しかたがない。私はドアの前にスリッパを揃え、当初の目的を果たすため、中に入った。ヘルメットをかぶったまま。
私は今でも、あの時の名も知らぬ京大生の驚いた顔が忘れられない。
そして「すまん」と言いそびれたことが、少しだけ心残りである。
