今日は老老介護の栃木県に行きますので、ブログは仕込んでいます。

 

 さて、本日のテーマは、山形県の官民往復便 です。

 FKKのオークションで入手しました。

 目新しさはありませんが、「公文書」との記載は余り見ないような気がします。

 

 

宛先の住所は第二大区(?)小二区楯岡村でしょうか。

 

 井戸庄三氏の「明治初期の単一区制、大区小区制について」に山形県の大区小区の記載があります。少し長いですが、引用します。

 

 明治四年(l八七1)十一月二日、廃藩置県後の府県の統廃合により、現在の山形県域は山形、置賜、酒田 (明治八年八月三十一日、鶴岡県と改称) の三県になった。

 明治四年八月、山形県は山形元郭内外(村山郡) の三〇二町村を二七区、置賜郡のうち三九町村を五区にそれぞれ区分し、つづいて同年十一月、天童県の合併に伴ない、村山郡を二九区、翌五年一月、旧新置賜郡の五区を合わせて四八区を編成した。

 

 山形県は'明治五年(一八七二) 十月へ単一区制を大区小区制に転換し、県下を七大区四三小区に改編した。

 酒田県も同年十月、十一大区三〇小区を編成し、大区に区長へ小区に戸長へ副戸長を任命した。

なお、酒田県の大区小区は、旧庄内藩の地方統治制度を受け継いで大区は郷、小区は組を単位として編成されている。

 置賜県は、明治六念(一八七三) 四月、それまでの二九区を六大区二八小区に分画し大区に区長一名、小区に戸長へ副戸長五〜七、八名を配置した。その後、明治七年(一八七四) 七月、山形県は小区を減らして七大区三九小区とし、酒田県も翌八年(一八七五) 二月に六大区三三小区に改編した。

 明治九年(一八七六) 八月二十一日、山形、置賜、鶴岡の三県が統合されて現在の山形県が成立すると、大区小区の改編作業がすすめられ、十月十三日、県下は10大区100小区に分轄されることになった。大区と郡の関係をみると、第一〜第三大区が村山郡、第四大区が最上郡、第五大区が飽海郡、第六へ第七大区が田川郡、第八〜第一〇大区が置賜郡から成り立っていることから、歴史的領域である郡が大区の基礎単位として認知されていたことが指摘できる。

 

 以上より、この宛先住所は第二大区と思われます。

また、切手が明治8年2月4日発行の洋紙改色1銭薄茶の「かな入り」なので、明治8年12月21日か明治9年12月21日だと思いますが、明治9年5月には旧小判黒1銭が発行されているので、明治8年が濃厚です。

 

 他方で、薄いのですが、記番印ケ5号+KG山形 一二・二一が押されています。

記番印は明治8年から使用されましたが、当初はN1B1との組み合わせで、KG型がいつから使われたのか次第で明治9年の可能性も残っています。

 明治郵便局名録によれば、山形のKG型は明治9年からの使用と記載されているからです。

 

 大区小区制には、①「統治」優先型、②「自治」尊重型、③「行政」優先型があったようですが、山形県は上述の通り、郡が大区の基礎単位となっているので、③のようです。