昨日は自宅勤務日だったので、17時以降は津田沼徒然草NEXTの編集に没頭。ブログの更新もすっ飛ばしてしまいました。

 さて、今日は以前話題にした測候所から鈴木金一郎氏に宛てたエンタの中から、「住友私設 新居濱気象観測所」を紹介します。

 明治時代の伊豫国には「松山一等測候所」が存在していましたが、私立測候所として住友別子鉱業所(当時の名称)による「住友新居浜測候所」及び「別子(べっし)・四阪島(しさかじま)・東平(とうなる)の各観測所」が存在したことが「松山地方気象台のHP」に記載されています。

 

そして、この封筒の中には、住友別子鉱業所の用箋が使用されています。このことから、この気象観測所は別子銅山のために存在したことがわかります。

 

 なぜ、別子銅山のために気象観測所を設置する必要があったのでしょうか?

 

これについて、気象予報士の饒村曜氏が以下のような記事を書いています。

1.足尾・別子の教訓は日立に

 日本では、ヨーロッパのように石炭使用による公害がなく、わが国における大気汚染の歴史は、欧米の近代化を目標に殖産興業政策が推進された明治時代初期からです。事業の規模が拡大した明治中期から栃木県の足尾銅山、愛媛県の別子銅山、茨城県の日立鉱山といった銅精錬所周辺地域において精錬に伴う硫黄酸化物による大気汚染が周辺の農林水産業に深刻な被害を与えています。

しかし、銅精錬所周辺への影響度は、後から開発された鉱山ほど小さくなっていいます。

これは、先に開発された鉱山の教訓を取り入れているためです。

2.気象観測所の設置

 足尾鉱山では公害対策の一環として、明治31年11月に足尾鉱業所内に測候所を作っています。

また、同じ鉱毒問題をかかえる別子銅山でも明治31年10月に新居浜測候所を作り、32年1月には別子測候所、36年11月には四阪島気象観測所と、鉱山や精錬所の周辺に気象観測所を展開しています。

最後に開発された日立鉱山では、明治43年に神峰山頂に気象観測所を設置しています。

 

 銅の製錬により発生する硫黄化合物の状況把握のために気象観測所を独自に持っていたのですね。別子銅山では地域での公害を回避するため、四阪島に製錬所を移したり、汚染を希釈するために非常に高い煙突を作ったりして対策を打っていたようですが、私設気象観測所の設置もその一環だったことがわかります。

 

 私設気象観測所の存在がわかるこのエンタイアは、明治時代の殖産興業推進に伴う公害対策への取り組みを示す点で、貴重な資料だと思います。スタンプショウ2020に出品した「明治時代の鉱山局」を作成した時も、「公害」については気になっていましたが、16リーフの中にはそのスペースはありませんでした。明治時代の富国強兵や殖産興業に伴う功罪・光と影の部分については、別の機会に整理してみたいと思います。