てれびぃつけりゃあ
イチローの殿堂入り
ところで
メジャーへの道を切り拓いたのは野茂らしく
何でもパイオニアはそうみたいだが
その逆風やかなりのものだったらしい
その後次々と挑戦者が続き
今や大谷という怪物を生み出すところまできた野球
打って変わって
ボクシングの怪物井上は
当人は進化し続けているのにもかかわらず
以前レベルでの賞賛とは乖離してしまったかのような不遇?的階級価値みたいなものに曝されている感じであるが
軽量級で日本というのは特別であり
世界に名を轟かせるほどの選手の輩出のみならず
例えば勇利アルバチョコフなどに象徴される
立場のボクサー達に偉業を達成させる機会を與えもしたわけで、リヤドシーズンが井上と選手ファースト?なスポンサー契約をしたように井上の価値のみならず軽量級の舞台としての日本には何やら侵し難い格式のようなものがあるのだろうか、韓国を筆頭にその他の国々で市場、舞台を維持継続できなかったのをみればそんな想いがする。
テレビから世の中に目を向けると
イスラエルと関係の良いトランプとイランとも良好関係を構築したらしいマスクというコンビネーションでガザに平和をもたらそうという旧世界的なバランスオブパワーではない新世界的な宇宙開発などの進歩主義で世界をリードしようという米国、そのアメリカの大統領と大変関係の良い故首相夫人と中国と良好関係を構築したい現首相がいる日本、大統領が突然の戒厳令から刑務所送りという韓国
こう眺めていると世界というのは多層的に鎮座していて、近代的な視点と、アイデンティティや文化的な視点という双方向から観たなら上から冷戦、終戦、分断というよな分岐点から枝分かれしている様々から成っているような思いがする。
こんな事を考えると
アメリカは実際的という天才精神を尊重する科学的な問いという哲学的な探求を体現し、日本は痩せ我慢してでも信用と平和への姿勢を保ち、韓国は責任者を探すという見分けができたりもするが、この見分けということまさにそのことを近代文明の大衆観に提供する役目のテレビなどのメディア、つまりマスメディア、が既成事実的に形成する事で独自の基礎を担保しよと複製した数多の同等の基礎たる造語や誤用語から成り立つ空間が新しい文化を謳歌しながら文化の破壊に向かうのは自明でそれが意味するのは社会というか文化の構造改革であるといえる。
そしてまたテレビに目を向けると
芸人とか芸者がニュースなどを報道して意見を述べるというのは深夜番組とかならまだわかるが、まあプロパガンダであるし、某氏に8-9千万円貰ったと噂のa子さんを生贄に捧げたと噂のシャインを調査というくだりにあるが、こうみるとやはり権力は腐敗するし富は再分配されていないよねというような構図を映し出す事でよりリベラル?な方へ転がろうという社会的力学そのものにも見えはするが、ではその腐敗した膿状態もそのなかに何か真理をみようという我々傍観者にとっては日本初の女装男子とさえいわれるヤマトタケルや運命の赤い糸で迷宮を踏破したテーセウスのような英雄をこそ待望しているのであり、今回文春はただこうあったとこうあるべきという我々にその件での英雄不在を告げたにすぎないのだ。
そんな落胆の週末に衝突する
井上vsキム
少しドヘニーのようにリザーバーにお鉢が回る展開であるが、明らかにこれは差がありすぎとイチローの言葉を借りて言えば地球上の誰もが思いそうと思えもしそうなマッチアップだが
井上に隙が生まれたり、韓国ボクシング復活をかけてキムが凄い力を発揮するかもしれず、井上尚弥はキム対策は勿論映像も観てないということだったはずで、まあそうだろうなとなるし、キムの能力というのは土壇場過ぎてほとんどわからないが、左はスイッチしてもしなくてもナチュラルに見える。
気になるのは
ドヘニーやモロニーやキムが、つまり井上との対戦経験が蓄積してきたオーストラリア勢がどういう井上対策を講じているのか。それは世界的に共通、影響するであろう事であり、特にグッドマンは必ずその影響を受けるだろう。もし井上がまだやる気なら、ですが。
おまけ