拳闘論② | ボクシング原理主義

ボクシング原理主義

ボクシングの原理原則に則っとりながら技術論や方法論を分析考察。技術や意識の向上を目指したい、いちボクサーの見識メモ。
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 「ボクシングは素晴らしいスポーツである。

ただ、危険な競技であることに変わりはない。

他のスポーツにおいても様々な怪我や事故は起こる。

ただ、ボクシングの特異なところは、そもそもの目的が対戦相手にダメージを与える事だ。

そうやってこのスポーツのつき物とされている怪我が網膜剥離やパンチドランク、リング禍である。

そして、これを改善しようという絶え間ない意思と活動があるのも事実である。」




 

 「http://ringtv.craveonline.com/blog/181507-mares-shares-thoughts-on-friend-leals-passing
 



 「先日リング禍にあった選手に関する記事で、26歳という若さだったらしい。

去年に選手生命を絶つようなKO負けを喫したこの選手が、今回死亡した事に関してトップランクのブルース・トランプラー氏はツイッターで、驚きはない、と発言。

同様の反応を多くの関係者がみせ、同時に今回のような事態は起こるべきではなく、避ける事が出来たものだという。

ただ、バディ・マックガートがアルツール・ガッティを去ったように危険な状態にある選手へノーサインを周りが出したとしても、選手自身が歩みを止めないでいれば新しいトレーナーやプロモーターがつくのは仕方が無いだろう。
 
最終的には自己判断という事だが・・・。


段々と選手の実力やラウンド回数が増してゆき、練習やキャリアを通して身体に蓄積されたダメージなどを換算すれば過酷極まりない環境であるボクシング。そういったなかで、日々の練習や試合での負担を軽減してくれるものが技術であるので、ボクシングがディフェンスとテクニック重視になるのは何も不思議ではない。

悲劇を防止する意味で様々な処置が設けられても、真剣な人間をボクシングというルールの中に放り込めば必然的に危険が待っている。では、長い目で見たときここで重要となるポストは、統括的立場などではなく、競技指導の立場だと思われる。

選手育成における各段階の指導者は選手生命・人命という普遍的な点を重要視すべきで、常日頃、優れた理念と観察と注意からくる指導で個々の選手の能力が向上すれば、結果其れがスポーツ自体の発展に繋がるはずである。

マイク・タイソンを育てた事でも有名なカス・ダマト氏は、手がけた選手にボクシングからくる障害を残さなかった事でも有名だそうである。

ところで、たしかフロイド・パターソンだったかな・・・それと、ミッキー・ウォードは死後に脳を研究サンプルとして提供するそうだ。」



 「何だか恐いけども、そうやって科学・医学が進歩するんだろうな。ボクシングがパンチドランク・フリーになるのは何百年後だろう?

ところで近年レフェリーが試合をさばく際、事故防止のために危険・無益だと判断した場合に早めに試合をストップする傾向にあるな。」




 「近年のレフェリングにも、止めるのが早すぎる、という問題があるね。



結局レフェリーの状況把握・判断能力がものをいうのだろうが、

例えばパンチの無いボクサータイプがボコボコに殴りまわされ、それでも打たれ強いために必死に応戦する状況。

ポイント的にも体力・火力的にも逆転が希望薄であれば最終回まで闘わせるメリットよりは深刻なダメージというデメリットを優先して判断すべきだろう。


逆に、ポイントをリードしている選手が後半に相手のパンチに捕まってダウンしたとしても、立ち上がって少し耐えれば勝利が目前という状況。

この選手がグロッギー状態でもここで止めてしまうのは不当だと言える。


世界タイトルなどでは、挑戦者にも王者にも尊敬として本人に継続の意思がある限りは、どうしようもない場合を除いて、続けさせるべきだろう。世界タイトルというのは元来それだけの価値があるものなのだから。」



 「 こういった判断調整は採点にも言える事だと思うが、安全に闘う姿勢と危険を省みない姿勢とがあるな。

どちらかを知らないと何が行われ実際に成功しているかという、スタイルと行動の有効度の計り合いである競技を見れていない事になる。

これについてはまた次回。」




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