ようやく訪れた秋が身に染みるような、寒々しい日のこと。降り頻る冷たい雨の中、バイト帰りの俺・桜井翔は、大きな邸宅の前を歩いていた。

そこに黒塗りの高そうな車がやって来て、やや強引に俺の前で曲がって邸宅に入って行った。

「うへぇ、最悪……」

俺の顔には、跳ねた水、それも明らかに泥水が付いていた。文句の1つも言いたいところだが、しかし、車を運転していた相手は、どう見ても文句を言って通じるような人間には見えなかった。

カバンの中から持っていたタオルを取り出し、ゴシゴシと顔を拭く。そうしながらさっさとこの場を離れなければと、どこか頭の奥で危険信号が鳴っている。

ところが、邸宅の玄関を通り過ぎ、やれやれと息を吐いたところで、俺は見知らぬ声に引き止められた。

「ちょっと待て」

「な、何ですか?」

振り向くと、目の前に大輪の紺色の花が咲いている。何かと思って目を凝らすと、それは一本の大きな傘で、傘の下には和服姿の艶やかな男が立っていた。

男はついと俺に身を寄せ、手にしたハンカチで丁寧に俺の頬を拭う。その意外なほど優しい手つきと甘く深い香りに、俺は思わず彼の瞳を見つめた。

「綺麗な顔が台無しだ。悪かったな」

「もう大丈夫です」

「お詫びに送ってやるよ」

「いえ、結構です」

「まあまあ、雨もまだ酷いからな」

「ほんとだ」

見上げる空から勢い良く雨が降り注ぎ、辺りはみるみるうちに水溜りになってしまう。

「ほら、早く乗れ。家はどこだ?」

「この先のさくら公園の近くです」

俺の答えを聞くと、男は運転手に頷き、運転手はサイドブレーキを外す。そうして立派な車は、音も無く夜の街へと走り出した。





つづく