山中ヒコ原作『500年の営み』その後




 梅雨の合間の青空が目に滲みるような朝。
尾瀬の木道を、薄汚れた人型のアンドロイドが歩いていた。短い黒髪に広い肩幅、どうやら男性タイプのようだ。

 彼の重さを受けた木道は軋み、ギイギイと呻くような音を立てている。しかし、彼の足取りは軽く、その表情を見ても、楽しそうに見えた。

 実際、彼の足取りは、その前日までのことを思えば、幾分軽くなっていた。


 一週間前、もう会えないかもしれないと思っていた、自分の主“とらさん”に会えたからだ。
 とらはずっと目を覚まさず、まだ一言も言葉を交わしてもいないのだから、出会えただけなのだが。

 今朝、自分が目を開けようと起動した時、微かな聞き覚えのある懐かしい声を機械の耳は拾った。

「ーーーーひか、る」

 呼ばれて慌てて飛び起きたけれど、その時には、動いていたはずの唇は閉じていて、長い睫毛も微動だにしなかった。

 呼んでくれたのは、ヒカルAではなく、ヒカルB。多分自分のことだと思う。でも、とらは違うと言うかもしれない。

「とらさん、おはよう」

 いつものように声を掛け、立ち上がって外に出ようとして、ヒカルBはもう一度とらの傍に戻っていた。

 いつだったか、とらが読んでくれた大昔の絵本があった。ずっと眠り続けているお姫様が、王子様にキスをされると目覚める。確かそんな話だった。

 とらは女の子ではないけれど、自分にとって大切な存在である事に変わりはない。

 ヒカルは身を屈め、とらの唇に唇を押し当ててみた。こんなことで目を覚ましてくれたら、苦労はしないのだが。

 立ち上がり、ヨッコラセと歩き出す。今日は何か花を摘んで来よう。また見当外れだと怒られるだろうか?それとも、少しは喜んでくれるだろうか?目を覚ましてくれるのなら何でもいい。

「ヒカル?」

 とらの声が聞こえて立ち止まる。自分にもソラミミとやらが聞こえるようになったのだろうか?だとしたらとても嬉しい。

「おい、聞こえてるか?」

 ソラミミと言うのはリアルなものだなと、ヒカルは感動していた。しかし、どうやらソラミミではないようだ。

「ソラミミじゃない。こっち向けよ、つっ、痛たた……」

 振り向いた先のベッドに、横たわっていたはずの男が半身を起こしていた。

「とらさん!?目が覚めたの?」

 慌てて駆け寄り、隣に座って彼の肩を支える。触れた身体は、初めて出会った時に比べると痩せていて、いっぱい食べさせなきゃと思った。

「ああ、そうみたいだな」

 ヒカルの問いに答えながら、とらは笑った。また目が覚めるなんて、思えなかった。

もうヒカルには会えないのかもしれない。この旅は無駄なのかもしれないと、何度となく胸の内で自問自答を繰り返した。

「とらさん!とらさん!とらさん!」

 それでも、この不器用な3割減のヒカルBに、こうして名前を呼んで欲しかった。もう自分にとってヒカルは、AもBも無い。目の前に居る、ただ一人がヒカルなのだ。

「相変わらずうるさいんだよ。聞こえてるから、もう黙れ」

「だって、とらさ、ん、っ」

 不意打ちで奪われた唇を、ヒカルは思わず奪い返した。久方ぶりに合わせた唇は熱を帯び、互いの熱に溶けて行く。

 そうして二人はその夜、ヒカルの建てた小さな家の中で、肩を並べて寄り添い、手を繋いで指先を絡め、いつまでも語り合っていた。


「あのね、とらさん……」





《おしまい》