丁寧に描きたいからと、2日間を下描きに費やした彼は、3日目に下塗りと言うのをして、4日目から色を塗り始めた。油絵の具と言うそうで独特の匂いがする。


それは、初めて出会った時にも彼に付いていた匂いだった。ほんの数ヶ月前なのに、彼と出会ったあの日が思い出されて、僕は水槽の隅っこで泣いた。


「あれ?金魚ちゃん、元気ない?」


5日目。出勤して来た彼が僕に訊いた。そんなの、訊かれても答えられないよ。


「ああ、最近食が細くなってしまって、まだ若い子なんだけど、この環境だからねえ」


アートアクアリウムの管理人が、彼に説明してくれている。最近僕があまり餌を食べないから、気にかけてくれてるんだな。でも、食べられないものは食べられない。


「絵が完成するまで死ぬなよ?金魚ちゃ……なあ?カズナリってどう?和むに也で和也」


へにゃっと笑って智さんが照れくさそうに頭を掻く。ありがとう。もうすぐお別れだけど、貴方が名前をくれたから、これからはこの名前を大切に生きて行くよ。


でも、食べられない心当たりが、僕にはひとつあった。彼にあの目で見つめられ続けて、少しずつ身体の奥が熱くなっていたんだ。そして、まだ大人になって間もない僕は、その熱をどうやって消せるのかを知らない。


『熱い、熱いよう……』


あの人への恋心と、身体の熱さとで、僕は相当参っていた。なのに、着々と最後の日はやって来た。



 


「和也、ほら、絵が完成したよ」


彼のアルバイト最終日の休憩時間。智さんはレトロで落ち着いた木の額縁に僕の完成した絵を収めて見せてくれた。まるで生きた僕がそこに居るみたいな、とてもリアルで繊細な絵画だった。


「君のお陰で良い絵が描けたよ。ほんと、ありがとね」


この人は、なんて顔で微笑むんだろう。胸の奥がぎゅっと切なくて苦しくて、悲しくもないのに涙が出た。だけどその涙は、人知れず水の中に消えて行く。


絵が完成して良かったね。
僕なんか描いてくれてありがとう。
僕、貴方に出逢えて嬉しかった。


毎日毎日大勢の人間に鑑賞されて、この小さな、水槽とは名ばかりの檻に入れられて、ただ命が燃え尽きるのを待つだけだった。


そんな僕の毎日に、貴方が生きる喜びを与えてくれた。そして素敵な名前を贈ってくれた。


智さん、ありがとう。
僕、もう思い残す事は無いよ。





つづく