噂によると、こっちの地域はまだ梅雨入りしていないらしい。
今日も、気持ちいい青空の下雲が流れてる。
虫は嫌いだけど田舎の夏は好き。


今日は父の日。
去年は、父の日を一週早めに間違えてプレゼントを渡すというすっとぼけをかましたのだった。
どうりで店内の父の日フェアにあまり熱気を感じないわけだ。一週早いんだもの。

選んだプレゼントは、
大きなタオルケットと、何だったか。
もう一つもタオルケットだったかもしれない。
父が今使えるものを、と思って選んだプレゼントだった。

プレゼントを両手で抱えて、実家の階段を上がって、母に父の日は翌週であると教えられ。
遅れるより早まるのはまだいいやろって笑って。

ベッドで横になってる父に、
父の日間違えてちょっと早いけど、って言ったら、少し笑ってありがとうと言ってくれたのを覚えてる。
あまり笑わなくなってた父が、久しぶりに見せてくれた笑顔だった。



今年の父の日は、実家の庭から手折ってもらってきた紫陽花を飾った。
お父さん、私、花瓶を買おうと思う。



実家の庭も久しぶりに入ったなあ。
子どもの頃庭で犬と遊んだりしてた思い出がある。

当時まだ小さかった植物たちも大きく育って、
もはや庭というよりジャングルだけど、あれはあれで手入れして片付けたらしい。

色んなものに時間の流れを感じる。

もうすぐ一年かあ。
普段はパソコンからブログを更新することが多いんだけど、今日はスマホで更新してみようと思った。

ブログのような長い文章を書きたいとき、スマホよりパソコンで入力するほうが筆が進む気がする。
キーボードのほうが言葉に詰まらず脳内垂れ流しに入力できる、気がする。

一方、スマホでブログを書く最大の良さは、寝転がって入力できることである。
最大にして最高のメリットだと思う。
フリック入力においてこれ以上のメリットがあるであろうか(反語)。

寝転がって入力するときって、たいていリラックスしている状態にある。
お昼寝前だとか就寝前だとか、テレビ番組がつまらないとか、とにかくそのまま寝落ちてしまっても良い環境が整っているのだ。

身体がお休みモードに入ると、自然と頭もお休みモードに移行していくようで、
あれ?何書こうとしたっけ?って忘れたり、書こうとしてた内容から派生した枝のほうに思考が流れたり。
ブログ作成に集中できないことが多い。

ところで、facebookには「ノート」という機能があり、通常のタイムラインへの投稿とは異なり文章の中に画像をはめ込むことができて、ブログのように使える機能のようである。

はめ込んでみた。


そして「ノート」は、スマホアプリからは新規投稿できない仕様になっている。はず。

なのでfacebookで「ノート」を投稿する際は、椅子に座りパソコンに向かう必要がある。
寝転がってのフリック入力に比べると、多分なりとも心の襟を正すことになる。

パソコン入力のほうが脳内垂れ流し傾向にある、と言ったのに、パソコンの前で心の襟を正しているというのは矛盾している。
パソコンの前で私、かしこまっているじゃないか。
かしこまって脳内垂れ流しとは。

うーん、facebookのノートを更新するとき私は、自分の考えを言葉におこす作業に集中したいんだな。
脳内垂れ流しとは言うものの、脳内に湧いてくる思考や感情などを言葉という型にはめるには集中力が要るし、脳内垂れ流しって、逆にすごくない?
 
ここまで書いてあれだけど、キーボードのほうが入力が楽。という説が、自分にとって一番説得力あるな。

ああでも、キーボード入力だとこんなふうに話が二転三転してきたら文章を入れ替えたりするなあ…。

そうか、思いを言葉に変換するのには集中力がいるけど、読みやすいように構成変えたり修正するのにはパソコンが楽だから、キーボード入力のほうが脳内垂れ流しっぽく感じるのか。

脳内垂れ流しには、思いが適切な言葉で表現されている状態と、感じたままに書くこと、ふた通りあるんだな。

そして感じたままに出力すると、会話風になるんだね。

今日は、母の64回目の誕生日。
花屋さんに、「5月っぽい感じで作ってください」とお願いした花束を持って、実家に帰ってきた。

実家に向かう道中、運転しながら、去年の今頃を思い出す。
去年の今頃は、毎週末実家に帰っていたのだった。
大好きなとても良い季節なのに、季節の移ろいに焦りも感じていた。
積極的治療ができなくなった父がまだ家にいた頃。
父の様子や言動から、別れが近づいていることを感じさせられていた去年の今頃。


母は、会う度に父の話をする。
今日も、去年はこうだったね、ああだったねと、母と思い出を共有した。
こうすることで私たちは、まだ癒えない痛みを分け合い、父を近くに感じようとしているのだ。

今日の早朝、母の夢に父が登場したらしい。
早朝にトイレに行きたくなって目を覚ましたけど我慢して二度目をする方を選んだ母、いわく、

「なんか作ってくれる夢やった。知らん人がおったけど、食べる?って聞いてくれて、食べる〜でもトイレ行ってくる〜って答えた笑」。

父は、あの世でも誰かにごちそうを振舞ったり、一緒に飲んだりしているのだろう。
そこで笑っている父の顔が想像できる。

私は、スピリチュアル系の話に全く興味がなく、むしろ非科学的だと敬遠してきたほうである。
しかし、大切な人の死を経験してから、私は「あの世」を信じようと思うようになった。
私は死んだことがないから、死後のことは分からない。だから、「あの世」といわれる次のステージがある可能性を考えてもいいじゃないか。死は、終わりではなく、変化の一つと捉えよう…。
笑われるかもしれないが、そう考えると私の寂しさは少し軽くなり、救われる気がするのだ。
その日でその人の時間が止まることなく、繋がりを感じながら一緒に生きていけるから。

母の誕生日、父らしいプレゼントだね、と、母と笑った。