「今日はハンバーグが食べたいなぁ」
とスーパーに行ったとします。
店内に入ってみると立派な刺し盛りが
本日だけの大特価!!
「おお!今夜は刺身だ!後は何か見繕って〜」
と最初のハンバーグが消え失せてしまう。
これは良い悪いの話ではありません。
ただ
最初に感じていた「自分の感覚」
が
他者(この場合スーパー)が提示したもの
によって簡単に書き換えられてしまった
という例です。
勿論、
お店に行ってみたら気分が変わった
という事はあります。
ですが、その気分が変わったキッカケは何か?
という話です。
何の影響も無しに
閃いたのなら「直感」で自らの感覚を大事にした結果と言えるでしょう。
では、お店側の戦略によってだとすれば?
激しい言い方をするとすれば
自分の感覚より
他者の価値を優先した、
とも言えます。
いとも簡単に
自分と言う感覚を捨ててしまう。
不思議だし、ちょっとした恐怖すら感じます。
自分以外の人の発言や行動が
特に著名人やインフルエンサー、
或いは憧れている人や好きな人等の発言や行動は
自分のそれより価値があると感じてはいないかな
と思うのです。
そして極め人の発言や行動を
自分も同様であるかのように価値観としてや
アクションとして取り入れてしまう。
一人一人は完全に違うし、極め人のソレとまだ歩み始めたばかりの人のソレとは同様ではない事は明らかです。
ですが、目の前で何かキラキラして見えるものが
あれば、あたかもそれが正解で、素晴らしく、そのように感じ、考え、アクションする事こそが良い事のように思い、
自分にとってはどうか?
という事を見失ってしまいがちのように思います。
凄く強い言い方をすれば
「洗脳」とも言えるかと。
私は「あけ渡し」と呼んでいますがね。
私は簡単に
自分という感覚や価値観をあけ渡したくないと思っています。
自分の
心がどう感じ
頭がどう考え
身体がどう反応するか
その自分だけの答えを
誰かの経験上のものと置き換えてしまいたくはありません。
勿論、先駆者やプロの方の知識や体験は素晴らしく尊く、学びであり、有り難いものです。
ですが、
「師」のソレはあくまで一例であり
自らにどう取り入れるかを考え、学ぶものであって
「師」にチカラを与え
「自分」と言うチカラを退化させる
事は「師」にとっても真意ではないかもしれません。
何が快で何が不快か
どうなったら嬉しくて、どうなったらヘコむのか
そのひとつひとつを優劣や善悪と分類する事の
なんと寂しいコトか、、、
と思います。
こう思ったらダメとか
こう感じるからダメとか
ダメなんてないのに。
目の前の人の「良い」は目の前の人にとっての「真実」に過ぎないのに。
あらゆるキラキラして見えるものの中で
自分を退化させないでいたいと
私は思っています。