こんにちは。

まきです。

久しぶりの投稿です。

 

気づいたら臨月になっていました(笑)

お腹の子はすくすく成長してくれましたチューリップ赤

 

 

 

先日、主人と焼肉屋さんに行ったときのこと。

 

はじめ座敷の席に通されたのですが

マダムが私のお腹に気づいて

テーブル席に案内してくださったんです。

 

そのときに言われたひとこと。

 

「元気な赤ちゃん

 産んでもらわないといけないからね!」

 

その時は全く何とも思わなかったのですが

あとから気づきがあったんです。

 

これって見ず知らずの人に言われても

なんとも思わないけど

ある特定の人たちに言われると

すごいプレッシャーになるだろうなって。

 

同じ言葉でも

誰に言われるか

私の捉え方が変わるわけです。

 

「この人は私の○○だ」

という定義ひとつで。

 

 

それならば

その定義を変えればいいんじゃないか?

と気づいてやってみました。

 

「この人は

 今世たまたまご縁のあった

 数多の内のひとり」

 

「この人は

 今世たまたまご縁のあった

 おばちゃんのひとり」

 

「この人は

 今世たまたまご縁のあった

 おじさんのひとり」

 

みたいな感じで(笑)

 

 

そう思った瞬間

すごい楽になったというか

肩の荷が下りたというか。

 

私、今まで何にビビってたかって

その人自体じゃなくて

”肩書き”

ビビってたことに気づいたんです。

 

 

お母さん、お義母さん

お父さん、お義父さん

おばあちゃん、おじいちゃん

叔父さん、叔母さん

甥っ子、姪っ子

いとこ、子供

先生、上司、友達

etc…

 

いろんな肩書きがあると思います。

 

それに振り回されていたんだと。

 

 

とくに血の繋がりや戸籍上の繋がりは

家族や親族という

あたたかさも落ち合わせている反面

ときに重さ、息苦しさも兼ね備えていると

私は感じています。

 

「この人は

 今世たまたまご縁のあった

 おばちゃんだ」

 

一見、薄情な捉え方かもしれませんが

こう捉えることで

相手の存在、発言、行動に

そこまで振り回されることが無くなると

私は感じています。

どうでもよくなるというか。

 

だからこそ

許せたり、優しくなれたり。

 

この人は私の○○だ。

この○○に肩書きを入れてしまうと

特別感が出すぎるというか

重すぎるんです。

 

 

実際問題

姿形は違えど、私たちみんな

宇宙船地球号の乗組員です。

大元を辿ればみんなひとつです。

魂のふるさとに還ればひとつです。

 

肩書きなんてものに

振り回されてちゃあ

窮屈で窮屈で仕方がない。

見えるものも見えない。

見たいものも見れない。

 

 

 

先日、主人が私の父とゴルフに行く直前に

こう伝えました。

 

「お義父さんだと思わないで

 今世たまたまご縁のあった

 ひとりのおじさんだと思って」

って。(笑)

 

そしたらその日は

いつもよりフランクに

気疲れせずに

言いたいことも言って

楽しめたとのことでした。

 

 

頭の中は自由自在。

定義はいつでもどこでも

自分で変えられる。

もっと自分が楽になる設定をしていこう。

 

そう思った今日この頃です。

 

今日も皆さんにとって

素晴らしい一日となりますように☆彡

 

 

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