オリジナル・ヴォーカリストのジョン・フォックスが脱退し、ミッジ・ユーロが加入して最初にリリースされたアルバムの国内帯付盤手に入れましたよ。バンドとしては4作目?個人的にはジョン・フォックス時代はおろか、以降のアルバムも全く聴いたことがないです。クラフトワークやYMOなどのテクノ・ポップはあまり好きではないし、このアルバムを聴いたのも今回が初めてです。ただしリアルタイムで流行っていた、ここに収録の“New Europeans”はけっこう好きで、当時テレビ・コマーシャルでも使われてましたね。この曲、実際のところテクノ・ポップでも何でもなく、ただのゴリゴリのギター・ロックでした。ギター・カッティングは完全にウィルコ・ジョンソン(ドクター・フィールグッドの初代ギタリスト)なんですが、今聴くとちょっとミックス的にギターの音大きすぎますね。しかしこれが功を奏したのか、当時けっこうヒットしたような記憶があります。アルバムとしては“~Europeans”路線が数曲、あとはシンセを主体とした従来の路線で成り立っています。ライナーノーツにはエレクトロニック・ポップなんていう、ちょっと懐かしいような言い回しが出てきますが、今でもこういう呼び方するんですかね?このへんのジャンルは全く詳しくないのであれなんですが、ど素人的感想としましては、ここで展開されているそのエレクトロニック・ポップなる音楽は、ふり返って聴くとかなり稚拙というか、当時の最先端技術に100パーセント依存したかのような上っ面さ、底の浅さを感じてしまいます。やはりあれですかね?こういう日々、向上したり変化したりするテクノロジーってのは常に最新であることに大きな価値があるわけですから、あまりそこに重きを置きすぎた音楽は、時が経つと必然的にその未熟さが感じられたり、逆にそこに存在するアナログ感がさらされてしまったりするっちゅう、倒錯したことになるのかもしれません。もちろん聴き方として、そういう楽しみ方もあるというわけですが。メロトロンなんてその典型ですね。おわり

 

トッド・ラングレンが60年代末に率いていたバンド、ナッズのベスト盤です。84年に米ライノ・レコードからリリースされたレコで、ナッズがリリースした3枚のアルバムとシングル、そして未発表曲から抜粋された全12曲です。1発目の“Loosen Up”はフィラデルフィアつながりなのかわかりませんが、アーチー・ベル&ザ・ドレルズの同時期の大ヒット曲“Tighten Up”の明らかなパロディです。“Open My Eyes”のリフはザ・フーの“I Can’t Explain”だし、もろヤードバーズ・ヴァージョンの“Train Kept A –Rollin’”が入ってるしで、60年代後半のアメリカに無数に存在した、ビートルズ、ストーンズ、ヤードバーズ、ザ・フーらブリティッシュ・ビート・グループに憧れていたであろうガレージ・パンク・バンドのひとつと考えられると思いますが、改めて聴いてみると、さすが70年代に才能開花させることになるトッドのソングライティング能力、メロディ・センスが光ってます。個人的にはあんまり好みではない、60年代後半のアメリカのソフト・ロック群―例えばロジャー・二コルズとかミレニウムなんかの匂いもします。演奏、コーラスもうまく、まわりの同系統バンドよりもちょっと格上って感じですかね。ガレージ・パンクと聞いてイメージするB級感はほとんどないです。それでは以下トラック・リストっす。

 

SIDE A

1. Loosen Up

2. Open My Eyes

3. Gonna Cry Today

4. Kicks

5. Hello It’s Me

6. Magic Me

7. Not Wrong Long

 

SIDE B

1. Train Kept A-Rollin’

2. If That’s The Way You Feel

3. Forget All About It

4. Meridian Leeward

5. Under The Ice

 

その6からの続きです。

 

私はニコの‘The Marble Index’でのジョン・ケイルのアレンジメントに度肝を抜かれていたが、エレクトラが次のLPを作らないことを決めたときはさらに驚いてしまった。私は続編アルバムに資金を出してくれるよう、ワーナー・ブラザーズを説得し、ニューヨークで1週間のレコーディングを行なったのち、ジョン・ケイルがその‘Desertshore’の仕上げに私を手伝うため、ロンドンへやって来た。1日のセッションが終わったあと、彼はミキシング・デスクの上に足を投げ出してひと休みしていた。彼はジョン・ウッドに大きな態度で手を振り、こういった。

 

「君のところの連中の音でも聴いてみようか」

 

私たちは彼に何曲か聴かせ、最後にニックをかけた。するとケイルは驚いてこういった。

 

「誰だこのとんでもない奴は?!こりゃ驚いた。今すぐ会わなきゃいけないな。彼はどこにいるんだ?どこだ彼は!」

 

私はニックに電話をかけ、ジョン・ケイルが30分以内に向かうことを告げた。ニックは「うん、あの、分かった」と答え、私がニックの住所を書くと、ジョンはそれをひっつかみ飛び出していった。

 

翌朝、私はケイルから電話をもらった。

 

「ヴィオラ、アンプ、フェンダー・ベースとそのベース・アンプ、セレスト、それからハモンドB-3オルガンを積むための小型トラックが必要になるな。今日の午後だ」

 

私はその日、他のプロジェクトを予定していたが、ケイルはその日に‘Northern Sky’と‘Fly’のレコーディングをすると決めていた。彼らはいっしょにやって来た。ワイルドな目つきをしたジョンの後ろにニックがついてきた。その横柄なふるまいにもかかわらず、ケイルはニックに対して大きな気遣いを見せていた。ニックは用心深くも自分自身で楽しんでいるように見えた。ニックはリラックスして事を進めるだけだった。

 

‘Bryter Layter’は私のお気に入りの1枚で、あれこれとやり直したいと考えながら聴くことのないレコードだ。リズム・セクションのプレイ、ロバートのアレンジメントとマクレガー、ケイル、リチャード・トンプソン、サックスとフルートのレイ・ワーレイ、そしてドリス・トロイとP. P. アーノルドの貢献は不変の喜びを与えてくれる。ジョン・ウッドはこれ以上のサウンドは作れなかったし、私たちは完全に満足するまで何度も何度もミックスをやり直した。しかしアルバムが完成したとき、ニックは私に次のレコードはアレンジメントともサイドマンも何もなしで作りたいといった。

 

振り返ってみると、私たちはみな完全にニックの音楽に惚れこんでしまい、彼の内気さによって創り上げられた空間の中へ、私たちは喜んでどかどかと入りこんでしまったことが分かる。ニックは自分自身のアルバムから除外されたと感じていたと思う。私が気に入っていた‘Things Behind The Sun’を収録することを彼が拒んだこと、そしてあの3つのインストゥルメンタルを入れることを主張したのは、彼の怒りの表現だった。彼の亡霊は最後に勝利をつかんで笑っている。むき出しの‘Pink Moon’は彼の中で最も売れるアルバムであり、一方の‘Bryter Layter’は‘Five Leaves Left’に次いで3番目に甘んじている。

 

それ以来、私は正当な分け前以上をもらう英語圏のシンガーソングライターたちの曲を聴いてきた。ハンニバル・レーベルを運営していたとき、私は‘WPSEs(White People Singing in English)’と題したデモ・テープのための私書箱をもっていた。多くの者は最も影響を受けたとしてニックの名をあげていた。穏やかな息づかいのあるヴォーカル、悲しげで内省的な歌詞、そしてフィンガー・ピッキングによるアルペジオ。お次の方どうぞ!ニックの表現スタイルに匹敵するものはほとんどなく、彼の真髄には程遠い。一様にわずかにニックを思い起こさせる者たちだけが、ニックの音楽を知らないことが判明した。

 

以上第23章でした。ご清聴ありがとうございやした。

 

その5からの続きです。

 

私は一瞬、ニックに怒りを覚えた。‘なぜ彼は何もいえないのか?なぜもっとプロフェッショナルになれないのか?’

 

この頃までに彼はケンブリッジを中退し、彼にはすぐ近くに彼を支持するグループや友人がいなかった。ツアーを途中で下りた彼は、ハムステッドの部屋に引きこもった。彼はいつもハシッシュを吸っていたが、それは今や彼の生活パターンとなっていた。ギターをプレイし、マリファナを吸い、腹が減るとカレーを食べに出た。私たちがセカンド・アルバムのレコーディングを開始したとき彼は活気をとり戻したが、セッションとセッションの間、彼は孤立した暮らしに戻っていった。

 

私が認識していた社交上の定期的な外出は3つだけだった。1つはライアー・ダイス(注:各5個のさいころを投げて相手から見えないようにし、はったりをかけたりして自分の手を強そうに見せかけるゲーム)をするためボブ・スクワイアのところにいくこと、もう1つがニックの両親の家を訪問すること、そして最後がハムステッドのジョンとベヴァリーのところを訪問することだった。ベヴァリーはユダヤ人らしい母親の役目を引き受けていた。彼女はニックにチキン・スープを作ったり、彼の髪のことをたしなめたり、時には彼の服を洗濯さえしていた。彼女はニックのことが大好きだったし、彼にとてつもなく優しかった。ジョンも複雑な性格をもっていたが、たしかにニックを高く評価していたし、彼のことを大好きだとさえいっていた。しかし私はいかなるギタリストも、羨望の念をもたずにニックのプレイを見ることはできないと思う。私は時々ニックといっしょにジョンとベヴのところで夕食をとっていた。私たちはみんなハイになってレコードを聴いていた。こうしたリラックスした環境の中にいても、ニックはいつも用心深げに静かにしていた。

 

フランス・チャートを独占していたロング・ヘアの女性歌手、フランソワーズ・アルディはニックのファンだと語っていた。コラボレーションについて、ニックとの間で手紙のやりとりがあった。ニックと私はパリに飛び、サン・ルイ島にある彼女の最上階のフラットでお茶を飲むために古い階段を上っていった。最初から最後までニックはほとんどことばを発しなかった。私は彼女があまりにニックのことを不思議に思い、その話が失敗に終わってしまったのだと思う。

 

セールス不振、アメリカでの契約欠如、そしてツアーの失敗にもかかわらず、私は他のどのアーチストよりもニックとスタジオに入ることを楽しみにしていた。私たちはニックのヴォーカルとギターにエレクトリック・ベースとドラム・キットを加え、その後さらにセッション・ミュージシャンあるいはアレンジメントを施したリズム・トラックを作り始めた。ロバート・カービーはストリングスに加え、さらに手を伸ばし、ブラスのアレンジメントを書いた。私は‘Poor Boy’を聴いたとき、レナード・コーエンのアルバムに入っていた‘So Long, Marianne’と、そのあざけるような女性コーラスのことを考えた。私がニックに提案すると、彼はどう答えていいか分からないかのように少しの間私を見ていたが、完全に納得していたようには見えなかった。

 

私はその頃までに、事実上サウンド・テクニクス・スタジオに住んでいた。ウィッチシーズンのアーチストはさらに増え、みなが契約中だった。私たちが‘Poor Boy’のためのリズム・トラックを録った日、私は午前中を南アフリカのジャズ・ピアニスト、クリス・マクレガーのレコードのミキシング作業に当てていた。ニックと他のセッション・ミュージシャンたちが到着したとき、クリスはそばで聴いていていいかと尋ねた。クリスはトランスカイ(南アフリカ)の田舎で育ち、村のコーサ族の少年たちとはっぱを吸っていた。あの日、彼はダシーキを着てピルボックス・キャップをかぶり、コントロール・ルームの後ろに座り、パイプに草をいっぱいに詰めながら聴いていた。午前中のミックスのあとで、私の頭の中ではクリスのピアノがまだめいっぱい鳴っていた。ニック、デイヴ・ペグそしてマイク・コワルスキが曲を通しで演奏したとき、私は振り返り、クリスがニヤついているのを見た。私は、彼が考えていることと私が考えていることが同じかどうか彼に尋ねてみた。ジョン・ウッドがマイクをとりに行っている間、私は急いでスタジオのミュージシャンのところへ行き、こういった。「もうちょっとしたらピアニストがくるから」 それからクリスにニックを紹介した。彼が、ニックによってきっちりと書き出されたコード表をちらりと見やると、私たちはテープを回した。‘Poor Boy’のファースト・テイクのピアノ・ソロは、私のスタジオの中での最も思い出深い瞬間のひとつだ。

 

続く…

 

その4からの続きです。

 

‘Five Leaves Left’は1969年の夏にリリースされた。私の期待は、自分のプロダクション・アプローチがレナード・コーエンからインスパイアされたように、コーエンと同等の評判を受けることだった。コーエンはファースト・アルバムをアメリカで10万枚売り、一方でステージのオファーを全て断っていた。ニックのアルバムが英国でリリースされたとき、私たちはアメリカの自由なポリシーをもつFM局が、よくコーエンの‘Suzanne’をプレイしていたようなラジオの販路をもっていなかった。ジョン・ピールはニックのアルバムをかけてくれたが、彼は数少ないうちの1人だった。ラジオ・ワンは無数にある英国的装いの中でも、全てが‘ポップ’に向いていて、その中でニックに似たものはほとんどなかった。多くの評論家はそっけない態度をとった。‘フォークと混合ジャズのぎこちないミックス’と、メロディ・メーカーは評した。

 

アイランドは当時USオフィスをもっていなかったので、クリスと私はフェアポート・コンヴェンションのためにA&Mと、ジョン&ベヴァリー・マーティンのためにワーナー・ブラザーズと提携した。何人かのアメリカ人のA&Rマンはニックを気に入っていたが、実際にオファーを申し出る者はいなかった。彼らはニックのライヴを見る必要があるといった。デヴィッド・ゲフィンはニックを気に入っていたが、どういうわけかアサイラムとの契約は具体化しなかった。

 

69年の秋はフェアポート・コンヴェンションの復活と、‘Liege and Lief’のリリースがあった。その栄誉を記念し、ロイ・ゲストはロイヤル・フェスティヴァル・ホールを押さえ、私たちはウィッチシーズン・ナイトと銘打った。ジョン&ベヴァリーがオープニングを務め、それからニックが前半部分を締めくくることになった。オーディエンスの前でプレイする彼を見たことがなかったので、私は神経質になっていた。ニックはいつものそっけない彼のままだった。私はまばらな拍手に向かって彼を紹介した。フェアポートの致命的な事故をとり巻く感情によって、オーディエンスはとても礼儀正しかった。彼らは静かにニックの歌う‘Three Hours’を聴き、そして喝采が湧き上がった。ニックはどうやって笑みを浮かべていいのか分からないような怪しげな表情で、彼らを見ていた。ニックが無言でチューニングする間、再び静けさが戻った。ようやく彼は‘The Thoughts Of Mary Jane’のオープニング・コードを弾き始めた。どの曲も大きな拍手を受け、私は好意を寄せる感情の波がステージに向かってくるのを感じていた。彼がステージを終えると声援が巻き起こり、私はアンコールに応えるようニックをステージに戻した。私はステージの袖に立って見ていたが、私の心は全速で走り出していた。

 

‘ニックはツアーができる。彼はやはりコンサートでプレイできる。オーディエンスに話ができないのは大したことじゃない。これから身につけるだろう。彼は真のキャリアを積むことができる。どう考えても私は憶測でいっているわけではない。’

 

ウィッチシーズン・オフィスの誰もがニックのことを大好きだったし、彼のパフォーマンスに興奮していた。翌朝、私たちは彼の初の英国ツアーのブッキングにとりかかった。2ヵ月後、彼は国じゅうのクラブと大学を回るコンサートに出発した。私はスタジオで忙しかったが、ツアー最後の方のショーを1つ見ることになっていた。しかし3度目のステージが終わったあと、彼が私に電話をかけてきたとき、彼の声は敗北感でつぶれてしまっていた。

 

「あの・・・僕はもうこれ以上ショーができないと思う、すみません」

 

彼はただ、うちに帰りたがっていた。

 

私はショーのうちの1つのプロモーターに話を伝えた。彼がいうには、聴衆は絶えずおしゃべりをしていたが、ニックが曲の間にチューニングを始めたとき、ざわめきはさらに大きくなり、彼らはおかわりのビールを買いに行き始めたそうだ。グラスのチャリンとぶつかり合う音とざわめきは、ニックの演奏よりも大きくなってしまった。彼はステージ上で何もいわず、ただチューニングして歌うだけだった。そして騒音があまりにひどくなったとき、彼は少しの間うつむいて自分の靴を見つめ、そして立ち上がってステージを降りてしまった。

 

続く…

 

その3からの続きです。

 

クリス・ブラックウェルは私にジョン・マーティンという贈り物をくれた。マーティンはアイランドで2枚のLPをリリース済みだったが、実のところ、クリスは彼をどうすればよいか分からず、私が適任だと考えた。私は彼のプレイを称賛したが、大ファンというわけではなかった。ジョンがベヴァリー・カットナーと公私にわたって活動を始めたときに、私はジョンと働くことになった。ベヴァリーはトッド・ロイドがウィッチシーズンと契約させたがっていた元デニー・コーデルのアーチストだった。私はジョン、ベヴァリーとともにアメリカで、ポール・ハリスというニューヨークのピアニストを音楽ディレクターとして、1枚のアルバムをレコーディングした。私はポールのスタイルがニックの‘Time Has Told Me’にぴったりだと考え、彼がジョン&ベヴァリーのそのLP、‘Stormbringer’の仕上げのためにロンドンに来たときに、彼にニックを紹介した。ポールはニックと話したり、彼のところを訪ねたりして共に時間を過ごし、そして‘Time Has Told Me’と‘Man In A Shed’でプレイした。彼はいつも頭をかきむしっていた。まるでその青年がどこの惑星からやって来たのかを突き止めるかのように。これがミュージシャンたちがニックに対して示した典型的な反応だった。彼らはニックをどう分類していいか分からなかった。いく人かはハリスのように、ニックの非凡な才能の虚弱性を受け入れ、彼のことをとても擁護するようになった。

 

リチャード・トンプソンがニックの曲を聴いたとき、彼は何度ももう一度聴かせてくれと頼み、眉間にしわを寄せながら集中し、そしてすばらしいパートを考え出していた。彼はコントロール・ルームの出入口に立ち、いぶかしげに集中しながらプレイバックを聴いていた。リチャードはあらゆる種類の音楽を理解することを好んでいたが、ニックの音楽は彼を悩ませていた―‘これはどこからやって来たんだ?’

 

カービーが自ら‘River Man’の適任ではないと宣言したときに、‘Five Leaves Left’の最後のトラックが然るべきところにおさまった。彼は何とか試みていたが、ニックの望むような曲にふさわしいアレンジメントを施すことができなかった。ジョン・ウッドはすぐにハリー・ロビンソン、別名ロード・ロッキンガムを提案した。‘6.5スペシャル’で初めて英国のテレビにロックンロールが襲来したとき、その番組の専属バンドがロード・ロッキンガムのイレヴンだった。またハリーは初期のアイランド・レコーズの構成メンバーだったが、数年前に自分の株式を売り払っていた。作曲家として彼は、吸血鬼役の最高位、クリストファー・リーとバーバラ・スティールをフィーチャーしたハマー・ホラー映画のスコアを書いていた。これらのいろいろと興味深い話を私たちにしたあと、ジョンは的外れに思えるような要点に触れた。オーケストラ編曲家としてのハリーは、模倣の天才だった。私たちはシベリウス(注:1865-1957:フィンランドのクラシック作曲家)が必要か?彼はシベリウスを作ることができた。しかしニックは‘River Man’にディーリアス(注:1862-1934:英国のクラシック作曲家)のようなサウンドをほしがっていたので、ジョンはハリーのことをおあつらえ向きだといった。

 

ニックと私は、バーンズ・コモンの中央にひそむロビンソンの家を訪問した。その家はある木の下にあったが、それは10年後にマーク・ボランの命を奪うことになる木だった。テープを聴いたハリーは、私たちがやって来たときからすでに興味をそそられていた。ニックは曲をかけ、それに合わせてギターを弾き、自分がほしがっているストリング・パートの雰囲気をハリーに伝えた。私はあんなにはっきりとものをいい、きびしく注文をつけるニックの姿を見たことがなかった。ハリーはメモをとり、うなずいていた。結果出来上がったトラックは―フォルクスワーゲンの宣伝に使われた‘Pink Moon’の次に―ニックの中で最も多くエアプレイされ、議論されることになった。後年、私がハリーと会ったとき、彼は必ずあの日のレコーディングの話をしていた。ハリーが指揮する中、ニックはオーケストラに囲まれ、ギターをプレイし、歌った。ちょうどそれはネルソン・リドル(注:1921-1985:米国の作曲家・アレンジャー:シナトラのアレンジャーとして有名)とフランク・シナトラのようだった。

 

続く…

 

今年になってシャーリー90歳を記念して、ついにオリジナル仕様のアナログ盤で再発されたデビュー・アルバムです。全世界800枚限定だそうです。5000円台とえらい高かったですが、オリジナルの英アーゴ(Argo)盤だと1,000ポンド(約20万)くらいするらしいので安いもんです。内容については2011年2月6日にここでジャケ違いのCDをとりあげたので省略します。当時シャーリーは23~4歳、伴奏のギターとバンジョーはまだ彼女自身ではなく、プロフェッショナルな(?)男性プレーヤー軍が務めていて、のちの彼女と何ら変わらない、完成されたあのイナたい歌唱を聴くことができます。この調子でセカンド・アルバムの『False True Lovers』も再発してほしいですね。プロデュースを担当した一人が、あの民俗学者でシャーリーとアメリカでフィールド・レコーディングを行なったアラン・ローマックスです。その時のことをシャーリーは2004年に出版した『AMERICA Over The Water』という著書で詳しく記しています。

 

ブライアン・イーノはその本について次のように推薦文を寄せてはります―「アラン・ローマックスは申し分なく20世紀の文化における中心人物だ。ローマックスがいなければ、ブルースの爆発も、R&Bムーヴメントも、ビートルズとストーンズも、そしてヴェルヴェット・アンダーグラウンドも生まれなかったかもしれない。彼は西洋のポップ・ミュージックの肥沃な最初の土壌に、独自性と含蓄性、そしてアフリカン・アメリカン・ミュージックへの情熱を注入するパイプだった」

 

『AMERICA Over The Water』は辞書片手にコツコツと全訳したので、またいつか紹介したいと思ってます。

 

今回のレコには写真(↑)のとおり、若き日のシャーリーをフィーチャーしたポストカード2枚つき!

 

その2からの続きです。

 

会うだけで1人のミュージシャンについて何が分かるだろうか?カービーは愛想がよく、陽気で、まるで若き音楽講師のようだったが、冗談をいう彼の奥にはニックとニックの音楽に対する深い愛情がはっきりと感じられた。私は彼らがいっしょにくつろいでいるのを見るのが好きだった。曲に対するロバートの見解は、いつも現実的で実用的だった。元気づけられた私はレコーディングの日取りを設定した。

 

彼らは私が聴いたことのない1曲からセッションを始めた。なぜならニックはその曲にギターを使用しなかったので、私に聞かせてくれていなかったからだ。ジョンはマイクの位置を調整したりイコライジングしながら、それぞれの楽器を分けて録ったので、私は常にフルの六重奏を聴くことによる苛立ちを辛抱する必要はほとんどなかった。個々のチャンネルを聴くと、そこには興味をそそるような並外れた力強さがあった。最後にジョンが全チャンネルの音を一斉に鳴らし、ロバートが‘Way To Blue’に施したアレンジメントを聴いたとき、私は喜びと安堵感でほとんど泣き出しそうになってしまった。

 

私たちはすぐに‘The Thoughts Of Mary Jane’と‘Fruit Tree’に移った。それぞれのアレンジメントにはお決まりの情感的描写は全くなく、ニックの声と詞を完璧に引き立たせていた。ニックのパフォーマンスの一貫性によって、全員がそろった小さな部屋で快適なレコーディング・セッションとなり、ニックとストリングスはロバート指揮のもとに共に動いていた。ジョンはニックのヴォーカルのために様々なマイクを実験したが、最終的にノイマンU67に落ちついた。そのマイクは深みを引き出し、繊細な気息音もとらえていた。

 

当時、‘Fruit Tree’の歌詞は特に私の胸に突き刺さってくるものではなかった。私は彼がマールバラの英文学科クラスで読んでいたかもしれないような、人生に対する憂うつでロマンチックな抒情詩としてとらえていた。例えば17歳で自殺し、何10年も経ってから称賛された詩人トマス・チャタトンや、29歳のときにイタリアで水死した詩人パーシー・ビッシュ・シェリーのような。あるいはバディ・ホリーやジェームス・ディーンだ。あのときの私たちに彼の歌詞に含まれた意味をどうして理解できようか?

 

名声は果物のなる樹にすぎない

それはまったくあてにならないもの

それは決して花ひらくことはない

そのくきが地面に落ちるまで

 

それからこうだ;

 

地中深く僕に与えられた安らぎ

そのときに彼らは君の本当の価値を知るだろう

 

これらの詞は、そのとき全く予言的には響いてこなかった。ニックはシャイで自分に自信をもっていなかったが、たくさんの友人がいるように見えた。彼は足しげくロンドンとケンブリッジの間を行き来し、レコード作りを楽しんでいた。時々、私はパーティーでこんなことをいう女の子に出くわしていた。

 

「ニック?もちろん好きよ。彼はすばらしいと思わない?」

 

ある1人の女の子、アリス・ゴアはいつも彼女たちが大親友であることを強調していた。ハーレフ侯の娘で、のちのエリック・クラプトンのガールフレンド、そして70年代初頭には彼のヤク仲間だったアリスは、ニックの死の数年後、薬の過剰摂取で命を落とすことになった。

 

私たちは次へ移る前に、それぞれのセッションのあとによく検討し、‘Five Leaves Left’の完成にたっぷりと時間をかけた。私はそのときまでに、ダニー・トンプソンと何度かいっしょに働いていた。彼は恐るべきテクニックをもったコントラバス・プレーヤーの大男で、セッションに独特のエネルギーをもちこんでくれる。彼は‘Three Hours’と‘Cello Song’に推進力をもたらしているし、彼の手際のいい姿勢はニックに驚くほどうまく働いた。私自身含めて、たいていの人々は無口なニックに気を使いすぎていた。ダニーは彼の背中をポンと叩き、押韻スラングでことばをかけたりニックの控えめな態度を冷やかしたりと、たいてい彼のことをからかっていた。ニックはためらいがちな笑顔を見せ、次第にリラックスしていき、セッションの終わりまでには笑うようになっていた。

 

続く…

 

その1からの続きです。

 

彼のアクセントは上品な‘容認標準発音’だった。父親が植民地部局で医者として働いていたビルマに生まれた彼は、マールバラ(イングランド南部)のパブリック・スクールに通い、私たちが会ったときはケンブリッジ大学で英文学を専攻していた。私は、例えばクリス・ブラックウェルのようなパブリック・スクール出身の多くの人たちと会っていたが、彼らは自らの全存在に疑いの念など少しももっていないように見えた。ニックもそのアクセントとぶっきらぼうで独特なくせをもっていたが、いくらか自信をもち損ねていた。

 

ある晩、ニックは私に全ての持ち歌を聞かせた。すぐ近くで見ていると、彼の指のパワーは驚異的だった。一音一音がラウドに鳴らされ、それはほとんど痛々しいほどだったが、小さな部屋にクリアに響いていた。私はそれまでにロビン・ウィリアムソン、ジョン・マーティン、バート・ヤンシュ、そしてジョン・レンボーンを近くで聴いていた。半分弦を叩くようなピッキングと、ぼんやりとしたハマリング・オン(注:hammering on:右利きであれば左手の指で、ピッキング後にその弦を押さえることによって音を出すこと。その反対はpulling off)は、彼らのトレードマークとなっていた。しかし誰もニックの卓越さには匹敵できなかった。1曲が終わると彼はギターのチューニングを変え、全く違ったコード形式で同じように複雑な曲をプレイし始めた。

 

60年代のロンドンはいいアレンジャーたちであふれていたわけではなかった。ジョージ・マーティンは自らが担当した。デニー・コーデルとミッキー・モストはジョン・キャメロンを使ったが、私は彼のことをジャジー過ぎると感じていた。私はアップルにいたピーター・アッシャーに電話をかけ、ジェイムス・テイラーのファースト・アルバムを手がけていたリチャード・ヒューソンについて尋ねてみた。ピーターは彼のことを称賛し、電話番号を教えてくれた。私はヒューソンに3曲分のテープを送り、ニックとともに彼を訪ねた。ニックは長い間うつむいていたが、私のいったことにつぶやくように同意した。ケンブリッジにいたロバート・カービーのことを知っていたニックにとって、このときの訪問は辛かったに違いない。しかし私はメイ・ボールでのアレンジメントを誰が書いていたのか尋ねようと考えたことはなかったし、ニックも進んでいうことはなかった。コンピュータ化される前のあの時代、レコーディング前に1つのアレンジメントを聴く手立てなどなかった。セッションの日、ニック、エンジニアのジョン・ウッド、そして私は、ミュージシャンたちがどうやってプレイしたらよいか模索しリハーサルする中、コントロール・ルームに座っていた。ニックがスタジオに入り彼らに加わったとき、私は彼のギターと同じくらい彼のヴォーカルも注意深く聴いていた。悩む必要などなかった。ニックは最初から最後までパーフェクトだった。一方、アレンジメントはまずまず良くも悪くもなく少しばかり神秘的だったが、アレンジを加えるというよりも、歌からそれているように感じられた。もう一度午前中にやったテープを聴いたあと、私がよくないことを認めると、ニックはほっと安心していた。彼が不満を申し出ることにいかに用心深いかが分かるだろう。しばらく沈黙したあと、彼はいった。

 

「この仕事をできそうな人がケンブリッジにいるんだけど」

 

ジョンと私は彼の方を向いた。

 

「彼はすでに僕の歌にアレンジメントを少しつけてくれたんだけど・・・それは、うん、なかなかいいと思う」

 

私は彼の提案に信憑性があるかどうかは確信できなかった。私は超一流のプロダクションを考えていたから、彼の仲間の学生を使うというアイデアは、私にとっては後退のように感じられた。しかし極度に慎重なニックが自分の友人を推選するということは、それだけ強い印象を与えていた。私は翌週ロバート・カービーに会うために、ケンブリッジまで車で行くことに同意した。

 

続く…

 

アマゾンで予約注文していたニック・ドレイクの『Making Of Five Leaves Left』(4LP Box)の発送に遅延が発生しましたっちゅうメールが届きました。予想どおりっすね。タワー・レコードやディスク・ユニオンなど他のネット通販では手に入りそうなんですが、2万円という高額なことと、海外のYouTubeでやっていた詳細動画を見ているうちに、なんとなく購買意欲がホワッホワッホワ~~としぼんでいってしまい、アマゾンでの注文をキャンセルしたまんまです。う~ん、例えば“Day Is Done”が3回続けて入っていたり、アナログ盤だと片面10分ちょっとだったりする面があったりと、実際届いたところでくり返し聴くかな~、ちょっともったいないかな~と思い直しました。実際ホーム・デモ集の2枚組LP『Family Tree』さえ、オリジナル作品に比べるとあまり聴くことはないし。3,000円くらいになったら買おうかな?なるかい!ちゅうわけでここではその代わりに、プロデューサーだったジョー・ボイドの著書『ホワイト・バイシクルズ』に載っていた、ニックとの出会いに関する章を何回かに分けて紹介したいと思います。本の中では第23章に当たります。フェアポート・コンヴェンションのアシュリー・ハッチングスから推薦されたジョーが、初めてニックに電話をかけたところから始まります。それではどうぞ。

 

「あの、もしもし?」

 

電話の向こうの声は低くソフトで、ほとんどまごついていた。それから数年の間に、私はまるで一度も電話をかけたことがなかったかのようなニック・ドレイクの受け応えに慣れるようになっていた。私が彼に電話したわけを話すと、彼は驚いていた。

「えっ?あ、はい、あの、明日中にもっていきます」

 

翌朝、タバコの焦げ跡のついた黒いウールのオーヴァーを着た彼が私のオフィスに現われた。彼は背が高くハンサムで、申し訳なさそうな猫背だった。彼は自分の美貌に気づいていなかったか、あるいはそれによって戸惑いを覚えていたかどちらかだった。彼は私にテープを渡すと、ぎこちなくドアから出ていった。

 

1968年の冬遅い日、静かな安らぎの午後を見つけた私は、オフィスの隅っこにあった小さなマシンにオープンリール・テープをセットした。最初の曲は彼のベストではなかった。‘I Was Made To Love Magic’だ。コーラス出だしの感傷的なコードは、私を悩ませるニック・ドレイク・ソングの数少ない瞬間のひとつとなった。しかし最初にそれが私をひきずりこんだ。つまり、それが私が初めて聴いたニック・ドレイク・ソングだった。次が‘The Thoughts Of Mary Jane’、それから‘Time Has Told Me’だった。私はテープをくり返しくり返しかけた。その才能の明白さと力強さが私に突き刺さってきた。それは私がロビン・ウィリアムソンの‘October Song’を聴いたときや、UFOでリチャード・トンプソンのソロを聴いた瞬間のようなものだったが、そこには唯一無二のニックの印象的な平静さが漂っていた。音楽はリスナーの注意を引こうともせず、ただ、いつでも応じられるかのような佇まいでそこに居すわっていた。彼のギター・テクニックは、その複雑さをすぐに気づかせないような明快さがあった。音楽的影響はあちこちに見られたが、その奥底にあるのはオリジナルな神秘性だった。

 

ニックは翌日やって来て、私の希望を聞いた。彼は口ごもりながらうなずき、自分の両手をじっと見つめ、それから私にタバコを吸ってもかまわないかと尋ねた。私は彼の両手に釘づけになっていた。彼の大きな手はニコチンで汚れ、がっしりとした筋節の長い指の爪は均等に切られ、垢がたまっていた。彼は私の説明を聞いている間、絶えず手を動かしていた。

 

その頃までの私のプロデュース作品は、たいていが活動中のグループのもので、それは当時のシンプルなレコーディング方法によるものだった。しかしニックの作品はアレンジメント、各曲の理想的な環境を大いに必要とした。インスピレーションのひとつとなったのが、レナード・コーエンのファースト・アルバムを手がけたジョン・サイモンのプロデュース・ワークだった。サイモンはコーラス、ストリングスその他を加えることによって、各トラックに装飾を施していた。それはコーエンのヴォーカルを圧倒したり、安っぽくしたりすることなしに引き立たせていた。コーエンのヴォーカルはピカピカのポップなエコーなしで親近感を与えるように録られていた。ニックはそれを聴いたことはなかったが、ストリングスを入れる考えを気に入ってくれた。彼はケンブリッジ・メイ・ボール(注:毎年5-6月にオクスフォードとケンブリッジ両大学で催される公式ダンス・パーティー)のストリング・カルテットといっしょに演奏していることを話した。それは私たちのミーティングで、生きいきとした彼を見た最初の瞬間だった。

 

続く…