東日本大震災の女性の記録
田中祥江さんとの会話 ―日常の小さな幸せから-
インタビュー時 50代
2020年5月30日
5月の晴れた日の午後、待ち合わせ場所に田中さんは笑顔で現れた。外の新鮮な空気と光をまとっているようだった。一年ぶりにお会いした。生協の中にあるパン屋さんの横の、購入したパンを食べるイートインに向かい合って座った。
―私はノートを広げる。
「あの日は、生協で仕事中でした。大きな揺れがありましたが、あせったりしないで、どちらかというとのんきにしていました。近所の人は“津波がくる”と回ってくれました。小学校の3階へ、中学一年の息子と小学校5年の娘と一緒に避難しました。こうして子供達と私は一緒ですが、私達に何かあって将来、夫だけが一人残されたら可哀そうだと漠然と思いました。ロウソクを灯し、ラジオをつけて、他の皆さんと一夜を過ごしました。寒かったのでカーテンをはずして、暖をとりました。津波で家が流されてきたり、ガソリン臭くなったのでロウソクを消しました。雪が降っていました。星も見えました。」
―このようなインタビューで、星を見たと言う人は、少なくありません。こちらから聞いたわけではありませんが、あの夜の星について語る人が結構いるんで。不思議なことですね。
「次の朝、同じく避難していた人達の中に、アレルギーを持っていてパンが食べられない子供がいて気の毒でした。私達は食べ物がないので自宅に帰りました。津波が襲っていて車が門にささっていました。泥の中から食べ物を探しました。内陸にある夫の実家に避難しました。10人暮らしになり、近くの井戸水に救われました。5月の初旬までお世話になり、そして2012年1月に自宅を改修して戻って来ました。思い出の写真がダメになって残念です。中学一年だった息子が“今度同じようなことがあったら、おんぶして逃げてあげる”と言ってくれたのが嬉しかったです。反抗期真っ最中だったのに、優しいことを言ってくれて。」
―息子さんのことを教えてくれた田中さんの目に、うっすら涙がにじんだ。涙をぬぐって、窓の方を向いた。
「同じ子育て中の母親たち、生協の仲間、近所の人達とか、一緒にいたいと思える人達と震災後に時間を過ごせてよかった。生協のお茶会を企画し、いろんな仲間に久々の再会をし嬉しかったし、全国のボランティアが助けてくれました。あたりまえが、あたりまえじゃないんだなぁとわかりました。いつもあたりまえにやっていることができなくなるって、こういうことなんだと実感しました。日々を大切にしていきたいです。“今”が続くことはない。私が、他の人からしていただいたことを、私も他の人にしてあげたいと思います。何かさせていただくことが好きなのです。自分がしたくてしているし、誰もしないんだったら、自分がやりたい。したいことしたいし。」
―田中さんの夢は何ですか?との問いに、少し首を傾け、黙って考えている
「夢なんて普段、考えてません。そうですねぇ、夢は、孫をだっこしたいです。平穏に暮らしたいだけです。子どもには幸せにふつうに生きてほしい。近所とはほどよい距離で無理せずつきあって、自分でできる範囲でできることをやっていきます。人の気持ちが一番ですね。あったかい世の中であってほしい。地球という大きなことではなく、子供からまず幸せになってほしい、小さなことから。あっという間の9年でした。10年は区切りではないですね。供えることを忘れない。だめだと思わずあきらめないでやってみるのも大切です。後でやろうとか、いつでもやれるというのはやらない、でもあせらず生きていきたい。3.11後、自分はあまり変わっていないと思います。大丈夫な人が、大丈夫じゃない人を助け、自分が助けてもらって、自分も誰かを助ければ、それが循環していくのではないでしょうか。まず自分の生活が安定していないと、気持ちがカサカサすると思います。震災後、乳がんの手術をしました。こうして病気を体験したことで、他の人の気持ちが少しわかるようになりました。震災で、お子さんを亡くした女性が、“子供を亡くしていないあなたには気持ちがわからない“と言われました。実際に経験しないとわからないので、想像するしかありません。でも、まず拒絶せず、そういう人の気持ちを受け入れたいです。」
―また会いましょうねと言って、お互いにお辞儀をして別れた。さっきと同じ優しい笑顔だった。5月の晴れの日にふさわしい光の中に溶け込んでいくような姿。そういえば、田中さんの誕生日は5月だったことを、思いだした。