32、船田の乱(後)
明応3年(1494)12月、斎藤妙純と対立する斎藤利藤に接近し、土岐成頼とその子元頼の信任を得た石丸利光は、妙純暗殺を企てました。
が、これに失敗。
利光は以上の船田城に兵を集めて妙純のいる加納城(岐阜市加納)を奇襲しようとしました。
しかしこれも情報が妙純方に漏れて失敗、これにより妙純への利光の敵意が露となりました。
掘を拡張するなどして戦いに備える妙純の居城加納城、そのすぐ南には対する利光の船田城そして荒田川を挟んで東側の両者の戦いの行く末を傍観する成頼の革手城。
この3つの城は現在の岐阜市加納と下川手のあたりに非常に近接していました。
妙純と利光はお互い相手の出方を見ながら睨み合っていましたが、翌明応4年の7月には妙純方が先手を打って合戦に及び、利光方に打撃を与えました。
形勢不利の利光は船田城に火をかけ、元頼を伴って墨俣(利藤の本拠地)<現在の大垣市墨俣>へ退き、さらに近江南部の六角高頼の元へ逃れました。
明けて明応5年、巻き返しを狙う利光方は六角氏や周辺諸国の軍勢の協力を得て再入国を画策していました。
当時、美濃以外の周辺諸国でも一国の覇権を賭けて内部で対立があったので各地の大名・国人はそれぞれの利害関係に応じて援軍をよこし、妙純・利光の対立関係と絡んで事態は複雑化していきました。
利光方が美濃に至る道の途中には、妙純方に味方する近江北部の「京極政高」がいたため、道を阻まれて関ヶ原を越えて美濃に入ることができません。
利光方は伊勢を経由して尾張津島に入り、さらに北進して、革手から移った成頼が居る城田寺(きだいじ)<岐阜市城田寺>の城に入りました。
妙純方は城田寺の方位にかかります。妙純方にも他国からの援軍が次々に駆けつけ、包囲網を縮めていきました。
利光方の必死の防戦も虚しく、ついには決着はつき、利光と元頼は自害、6月の初め、2年に及ぶ乱は鎮まりました。
これが歴史の教科書には出てこない船田の乱の顛末です。
参考 横山住雄「美濃の土岐・斎藤氏」
加納城
文安2年(1445年)に川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。船田合戦では斎藤妙純の居城となっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/川手城
<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)>
5月11日のNHK総合テレビ 麒麟が来る「長良川の対決」なので
長良川の写真を掲載しました
長良橋より上流(山頂に岐阜城)
長良橋(上流より)
山頂の岐阜城
長良川の鵜飼