小松義邦さんが執筆中の「中世を生きた西方氏」を覗いてみると「西方氏を起こしたのは、宇都宮氏七代景綱の三男の二男・景泰である。」と書かれています。

 また、宇都宮氏の発祥については「平安時代中期の関白・藤原道兼の後裔と伝えられ、初代宗円は近江石山寺の座主もつとめ、源頼義・義家親子の奥州下向(前九年の役・安倍氏追討)に従って宇都宮に下った。」とあります。

 宇都宮二代宗綱は宗円の弟「藤原兼仲」の子で、宗円の猶子となり跡を継いだが「八田」の姓を名乗っていた。鎌倉幕府の正式記録「吾妻鏡」に「故八田武者宗綱」の名前が確認されています。

 吾妻鏡は治承四年の源頼朝の挙兵前夜からはじまり、三万の軍勢を率いて隅田川を渡り武蔵国に着いた時の出来事も記されています。

 頼朝の乳母であった故八田宗綱の息女「寒川尼」が、息子を連れて隅田宿に参上し「息子を頼朝の側近として奉公させたい」と望んだ。頼朝はこの子を自ら元服させ「小山七郎宗朝」と名乗らせた。宗朝は後に「朝光」と名を改める。

 一族であった宇都宮氏と小山氏が後世で相争うことになるのですから、戦国時代を生き抜くことが”いかに大変だったか”が分かります。

 西方氏初代から西方落城の七代綱吉までの290年にわたる「歴史物語」。小山政光の妻「寒川尼」も登場します。

 小松さんの「中世を生きた西方氏」ご期待ください。

 

(寒川尼ちゃんと政光くん・2019.1.27撮影)

※栃木県群市町対抗駅伝に小山市チームの応援に駆け付けました。