前回のブログで、昨年運命数33の破天荒な父が亡くなったことを報告しましたが、今回はその時のことについて書こうと思います
父が亡くなったのは、昨年の7月。
ある夜勤明けの朝に、母から着信履歴がありました
母が、私に、しかも朝電話してくるのは、相当珍しいことなのでとりあえずすぐに折り返しました
母「あ、もしもし?
お父さん、死んだから
またあとで連絡する。」
電報かのような衝撃的な短文が詩人の母によって伝えられ、私はその直接的すぎる言葉を、夢を見ているような感覚で聞くしかありませんでした
私は、今何を考えればいいのか何を思えばいいのか正解がわからず、とりあえず妹に助けを求めるしかありませんでした
しかし、いくら妹の携帯に電話しても、LINEしても、メールしても妹に連絡がつきません
無我夢中で、コールし続けながら、妹の家に早足で向かいました
妹の家のインターホンを押すと、妹は呑気に寝ていたようでした💤
朝から家に突撃してきた私にびっくりしながらも、寝ぼけまなこで玄関のドアを開けた妹に、私は開口一番「お父さん、死んだって」と言いました
妹は「えー」とすぐに目が覚めたようでした
私は、妹に自分1人では抱えきれない事実が共有できて、安堵しました
父は、認知症で数年前から母が1人で介護していたのですが、徐々に介護の負担が大きくなり、2年くらい前から施設に入っていたのです
ちょうどコロナ禍とも重なり、施設の決まりで面会できない日々が続き、施設スタッフから時々父のスナップ写真をもらったり、母が週に一回洗濯物を交換に行くだけだったようです
でも、そこは母を世界一愛する破天荒な父
どうすれば愛する妻に会えるかを考え、導き出した方法とは、、、
肺炎を起こして病院を受診する、という突拍子もない身体張りまくりの強硬手段
父の目論見通り、母付き添いのもと、病院を受診することに成功
味を占めた父は、それから何度となく、熱を出したり、肺炎を起こしたりして、母との逢瀬を重ねるのでした
毎日浴びるようにお酒を飲み、ヘビースモーカーで脳梗塞や脳出血、クモ膜下出血のフルコンボを達成し、心停止状態に2回見舞われても死ななかった不死身な父も、認知症が進んで施設に入ってからは、だんだんと衰弱してきて、昨年の6月にはあと1ヶ月くらいと余命を宣告されました
余命宣告後は、県内に住んでいる家族のみが面会を許され、母と真ん中の妹が父の好きな曲をダウンロードして行って聴かせたり、父の大好きなフルーツの果汁を絞って行って唇を湿らせたりと最期はゆっくり家族の時間が過ごせたから、心残りはないと母は言っていました
私は県外にいて、面会できない正当な理由を与えられたことに心の中で感謝してました
私の中で、父はヒーローでかっこよくて、、、だからその思い出のままの父でいてほしかった
父の亡骸と対面した時、父がものすごく小さく感じました
が、不思議と涙や悲しい気持ちは沸いてきませんでした
お通夜、お葬式、火葬、初七日法要、、、とイベントが盛りだくさんで、とにかく家族一丸となって、それを乗り切ることで精一杯でした
ちなみに、お葬式の弔辞は、日本語が苦手な妹のやみこが英語で読み、私がそのあと和訳文を読むという鈴ノ宮家らしい珍しいスタイルでした
イベントを無事終え、実家で父の遺品整理をしていると、父の若かりし頃に海外で書いていた日記帳や母へのラブレターが出てきました
そこには私の大好きで尊敬してやまないカッコいい父の姿が、ありありと見えました
日記帳もラブレターも面白すぎるので、今度機会があれば載せますね
今回は、ここまでです
最後までお読みいただきありがとうございました