ヘンリー・ソロー著「歩く」を読みました。
 
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先日、ソローの「森の生活」が今の私に響いたので、他の書籍も読んでみよう、と。

ソローは1862年(159年前!)に亡くなっている方です。でもそんなソローは、スマホやPCに向かう時間が長い私に対して、「野生に帰れ」と言ってくれているように感じます。

 

歩き回ることなしに健康と精神は保てない

 

・一日に少なくとも四時間、ふつうは四時間以上、森を通り丘や草原を越え、世間の約束ご とから解放されて歩き回ることなしには、自分の健康と精神を保つことができない、と私は思っています。

 

・人は年をとるにつれて、じっと座って家の中で仕事をする能力が増してきます。人生のたそがれが近づくにつれて、彼の習慣は夕方向きになってきます。そして最後は、半時間ほど必要な散歩をするだけになります。

 

・私が語っている歩くことは、病人が決められた時間に薬を飲んだり、ダンベルや椅子を振り回すような運動とは似ても似つかないものです。それ自体が一日の大胆な取り組みで、冒険なのです。生命の泉です。そうした泉がはるか離れた草原に人知れず湧き出でているとき、健康のためにダンベルを振り回しているとは!

 

【私の感想】

私は単純に歩くことがストレス解消になることを、最近特に感じています。だから、ひまさえあれば、外を歩いています。家の中で、スマホを見たり、テレビを観たりばかりしていると、余計に疲れる感じ。ソローのように一日四時間も歩けないけど、私の地元には、身近に森や草っぱらがありますし。

健康のために夜中にマシンで筋トレするのが流行っていますが、日の高いうちに外を歩く時間をとることが健康を保つのに大事だと私は思います。

150年前の人々はそういうことを普通にやっていたように思っていましたが、「ダンベル」の件で、現代に通じることをおっしゃっています。

 

私たちの足はひとりでに草原や森へ向かう

 

・歩き始めると私たちの足はひとりでに草原や森に向かいます。もし庭園や木陰のある散歩道しか歩かないとしたらどうなるでしょうか。

 

・どちらへ歩いていこうか決めるのがかなり難しいときがあるのですが、なぜでしょうか。「自然」の中には微妙な磁力があると私は思っています。知らず知らずにそれに従うなら、ふさわしい方向に導いてくれるでしょう。

 

・歩くために家を出て、どちらに向かうか不確かで、決心を自分の本能に従わせるとき、不思議であり妙であに思えるかもしれませんが、最後は必ず南西になるのです。その方向にある特定の森、牧草地、人の住まない草地、丘に向かっています。

 

・私が語っている「西」は「野生」の別名に他なりません。

 

・野性的であることは、何と善きものに近いことか!生命は野生と共鳴しあっています。最も生き生きしているものは最も野性的なものです。

 

【私の感想】

文明に支配されつくしている人間は、そこに活力を奪われている。自然な力を取り戻そうとする本能が、自然が豊かな場所に向かわせる。私は、そのように解釈しました。都会で便利な世の中に生きていても、山登りやキャンプをしたくなるのは、本能的なものかも。人間にはもともと野性的なものに力を感じていたんだなー、と。

狩猟生活を送っていた縄文人は大自然を崇拝していた、という話を思い出しました。

 

 

ソローは、水上のスイレンがとりわけ好きであった

 

「歩く人ソローについての覚書」より

彼は散歩の途中でスイレンを眺める。すべての植物の中で、地上のバラ、そして水上のスイレンがとりわけ好きであった。その香りは何と甘く、健康的であることか。その根は泥の中にあるが、白い花びら何と純粋なことか。

 

・スイレンは時間の花でもある。夏の日の太陽の光がかすかに水面に届いた瞬間、眠っていたスイレンの白い花が咲く。屋外にいる時間が長い者、水辺を歩く者にしか、幸運は訪れない。ソローは自然が刻々と姿を変えることをだれよりもよく知っていた。

 

【私の感想】

外を歩いていると、美しいものを自分で見つける嬉しさがあります。植物を眺めていて、ときに感動する発見があります。最近の私は、それを感じ始めた気がしています。

ソローが水辺を散歩しながら、スイレンの花に足を止める。そんな文章は、自然から感じることに幸せがあることを教えてくれているな、と。

SNSも、テレビも、楽しいですが、それらは誰かが見つけてきたものを見せられているわけで。自然の中から、ダイレクトに感じるのが本来の人間。野生をもつ私たちだから。

ああ、なんと散歩は楽しいことか!

 
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ありがとうございました。