新渡戸稲造著・岬龍一郎訳「武士道」を読みました。
 
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先日読んだ、渋沢栄一の「論語と算盤」で、「武士道とは実業道である」と書かれていました。事業を行う人こそ、武士道を学ぶべきだという渋沢翁からのメッセージを受け取ったので、「武士道」について読んでみようと思ったのです。

 

新渡戸稲造が明治32年に著した「武士道」は欧米でも多くの読者を魅了したそうです。新渡戸は外国人に向かって、日本男児の心に宿る伝統的な精神を「武士道」の名において書きました。

 

武士は社会的に民衆より高いところに存在し、道徳律の基本を示し、自らその見本を示して民衆を導く存在でした。「武士道」は、人が正しく、美しく生きるための心の修養を教えてくれます。

 

礼儀作法で心を治める

 

日本人は、詳細な礼儀作法を教え込まれた。人に挨拶するときのお辞儀の仕方、歩き方、座り方など、こと細かに注意が与えられ、学ばされた。茶を点てて飲むことは礼式にまで高められた。

 

最も有名な礼法の流派である小笠原宗家の言葉によれば

「礼道の要諦は心を陶冶することにある。礼を持って端座すれば、凶刃剣を取って向かうとも害を加うること能わず」という。つまり、正しい作法をたえず訓練することによって、身体のあらゆる器官と機能に完全な秩序をもたらし、肉体と環境とを調和することによって、精神の支配をおこなうことができる、というのである。

 

【私の感想】

日本人は、立ち居振る舞いを美しくするよう修養して、精神をも高める境地に達していたのです。私は、自らの姿勢、歩き方、走り方を探求して、「生き方」につなげようとしていたので、この武士の礼儀作法と精神修養については、興味深いです。

 

日本人が誇るべき「武士道」には、作法、礼法の伝統があるわけです。精神を安定させ、肚を座らせる方法には、筋トレもヨガもあります。でも、日本人本来の立ち居振る舞いに学ぶべきところがありそうです。

 

武士道は個人よりも公を重んじる

 

グリフィス(アメリカの教育者)は、「中国では孔子の道徳が親への服従を人間の第一の義務としていたのに対し、日本では忠義が第一に置かれた」と述べた。

 

武士道では、個人より国家が先に存在すると考えた。義理と人情の板挟みが起きた場合、ためらうことなく忠義を選ぶ。武士の妻は、忠義のために息子を差し出す覚悟ができていたのである。

 

わが生命は主君に仕えるための手段として考え、それを遂行する名誉こそ理想の姿であったのだ。サムライの教育と訓練はすべて、これに従って行われたのである。

 

【私の感想】

渋沢栄一のいう、実業に活きる「武士道」とは、個人の得ではなく公の役に立つ事業と考えることなのかも、と受け取りました。とはいえ、「お国の為に」と喜んで自らの命や家族を捧げることを喜ぶのは、賛同しかねる感情もわいてきます。特権階級である武士に、自らの収入や家族よりも「国の為」にすべてを捧げるのが求められるというには、今の政治家と被るようにも感じました。

 

人の上に立つ者は、自らの損得よりも、組織や公のことを考えた判断ができる人。武士道のからは、そういう教えを受け取りました。

 

富は知恵を妨げる

 

武士道では損得勘定を考えず、むしろ貧困を誇る。武士道にあっては「武人の徳である功名心は、名を汚す利益よりも、むしろ損失を選ぶ」ものだった。

 

武士は金儲けや蓄財を賤しむ。よく知られた格言には「何よりも金銭を惜しんではならない。富は知恵を妨げる」というのがある。

 

もちろん数学の知識は、軍勢を集め、恩賞や知行を分配するのに必要だった。それでも金銭の勘定は身分の低い者に任された。思慮深い武士は軍資金の意義を十分知っていたが、それでも金銭の価値を徳にまで高めようとは考えなかった。

 

武士道が倹約の徳を説いたのは事実である。だが、それは経済的な理由からではなく、むしろ節制の訓練のためだった。贅沢は人間を堕落させる最大の敵と見なされ、生活を簡素化することこそ武士階級の慣わしであった。

 

【私の感想】

武士は、お金持ちになろうとするのでなく、人間の品格を大事にしたのだと理解しました。「名を汚す」ことを嫌い、「正しい行い」を大事にしようとしたのだと思います。

お金がないから倹約するのでなく、倹約することで徳を高める。そういう理解もできます。

私は、住宅ローンを抱えたことで、ミニマリストに学んで節制しようとしていました。

「お金を使うこと」より「自らの魂を磨くこと」という精神性がめざすべきところなのかもしれない、とも思いました。

 

ありがとうございました。