上野晴朗・萩原三雄編「山本勘助のすべて」を読みました。

 

image

 

私はDVDレンタルで、大河ドラマ「風林火山」を観ています。主役は、武田信玄の軍師を務めた山本勘助です。本書は、たまたま古本屋さんで見つけて手に入れました。様々な作家や歴史家が山本勘助について書かれた文章で構成されています。ラッキーなことに、著者のおひとりである安宅夏夫さんのサイン入りでした。

 




山本勘助は、大河ドラマの題材にされるほど人気のある武将ですが、その人生は「架空人物説」もあるほど、謎に包まれています。多くの人々は、山本勘助から何を知ろうとし、何をどんなところに惹かれているのか、興味が沸いてきます。

 

勘助は参謀であり、実行職であった

 

童門冬二氏は、「山本勘助にみる軍師の役割」という文章を寄せている。

軍師と呼ばれる存在は、トップが決断しやすいように情報収集や選択肢の設定をする。その「知的補佐役」は、「知的いとなみだけをトップに提供する者」と「自分が提案したものをみずから実行する者」のふたつに分かれる。

 

前者は、「参謀」と言われるもので、羽柴秀吉における竹中半兵衛のような存在。参謀は、実行職ではなく、スタッフ職である。もうひとつが「自分で考えた作戦を自分で実行してその結果をみる」というもの。これは「スタッフ兼ライン」であり、責任は重い。口ではおいしいことを言っても、実際に実行したときに失敗すれば、作戦そのものの拙劣さの責任も負わねばならない。勘助は「スタッフ兼ライン」の兼務を命ぜられていた。

 

童門氏は、勘助の役割を「信玄の理想を具現化する」というところにあったと述べている。

 

【私の感想】

 勘助は、武田家の譜代の家臣ではありません。そんな立場で、策を講ずるだけでなく、実行者として結果を求められました。コンサルタントのようなスタッフではなく、現場の責任者としていつも重役たちの厳しい目にさらされながら奮闘しています。童門氏が書いた勘助を主役にした小説も読みましたが、童門氏は勘助の役割を「信玄の理想を具現化する」ところに求めていたと思います。

 

 ドラマ「風林火山」の見どころもそこにあるような気がしてきました。重臣ではない勘助が組織の中でどう信頼を得て、実行部隊として東奔西走しながら結果をだしていったか。そのエネルギーの源は何だったか。常に信玄の影となって、トップに尽くした勘助の「思い」。それをドラマや小説から読んでいきたいと思いました。

 

「甲陽軍鑑」にみる勘助

 

江戸時代のベストセラー「甲陽軍鑑」には、武田の軍法がすべて詰め込まれている。

 

「甲陽軍鑑」は、高坂弾正昌信という信玄直属の武将が、心の書、内面の書として執筆した実録。長篠の直後から、その悲痛な決意でこの「歎異(たんに)の書」の筆をとっている。

 

その「甲陽軍鑑」に描かれている勘助像は、武田軍団に雇われた足軽隊将のひとりであって、その特技は「山本勘助城取、或いは敵をまはす事」にあった。

つまり山本勘助は甲州軍団の中で、信玄の軍師などではなく、第一の任務は敵地に入って、城を立てたり、城を造る責任者、あるいは古い城郭などの改築を手掛ける武将だったのである。現代風にいえば、偉大な建築家のようなものであった。

 

そのような結果、信玄の占領地信濃に入っていくと、高遠城、高島城、小諸城、海津城などに山本勘助の縄張りの伝承が強く残されているのである。

 

【私の感想】

歴史家が語る勘助の実像と、小説やドラマで描かれる勘助とはかなり違いがあることがわかります。勘助についての伝説は人から人への言い伝えと、小説などでイメージが作られてきたようです。

歴史家の文章を読んで私が思ったこと。私が知りたい山本勘助像は、歴史学的に実際の山本勘助がどんな人物であったかよりも、歴史の読み物としてどう描かれ、人々は山本勘助から何を学ぼうとしているか、だと思いました。

 

山本勘助の美しい夢

 

安宅夏夫氏は、「文芸作品に描かれた山本勘助像」を解説している。

 

海音寺潮五郎の「天と地と」が大河ドラマで昭和44年に放送され、それを観た視聴者の家から武田晴信の書状が発見される。その書状(市河文書)で、山本勘助が実在したことが証明された。

この「天と地と」には、勘助は登場しない。作者は、史実を重く見る「歴史小説」系の作家として知られる。勘助は歴史家に「架空の人物」とみられていたために「天と地と」に勘助を登場させなかったのだ。

 井上靖「風林火山」は山本勘助ブームの火付け役になった作品。文句なしの時代ロマン小説の傑作。作者の井上靖はエッセイの中で、

「山本勘助が史上実在の人物であったかどうかは甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります。その存在に対し、私は自分の青春の夢を託しています。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものに奉仕する精神を注入してみたかったのです」

 

また、この「夢」というキーワードは「風林火山」の作中にもたびたび記されている。

「勘助にとって、由布姫は晴信と同様彼の夢であった。この現世に於ける、勘助の唯一つの、美しい壮大な夢であった。晴信も必要であったが、由布姫もそれに劣らず必要であった。どちらがかけても彼の夢は成立しなかったのである」

 

【私の感想】

「風林火山」の勘助は、晴信という大将を心から慕い、その側室となる由布姫を慕い、その間にできた四郎を愛しています。晴信を天下人にすること、四郎を武田の跡取りにすること。そんな純粋な夢を勘助は持っていて、波乱万丈の人生の中でも「美しい夢」が勘助の生きる力だったのです。戦国の緊張感の中で描かれる、勘助のエネルギー。それが「美しい夢」から発せられるところに、人々の共感が得られたのかもしれません。

 

非常に稚拙な解釈かもしれませんが、「歴史から何を学ぶか」が歴史物を読む面白さだと思いますので、私なりの理解をして読んでみました。

 

ありがとうございました。