「初めてパパからホモセクシャルの話を聞いたのは、私が大学二年生の頃でした。同時になぜパパがママと結婚する決意を抱いたのか、それは数年前八丈島転勤時代に知り合った一人の少年との間における愛に原因があったと言っていたのです。」

 

 秋一は息を呑み、暗い照明の中、千鶴子を凝視した。

 

 「たった二年間の付き合いであったが、自分にとっては生涯最高の恋愛であった。自分にはその少年を誰よりも立派な人間に成長させたいという夢があった。もうすぐ彼は東京に来る。そして、彼は自分との恋の続きに燃焼するに違いない、勿論、自分だって会いたくてたまらない。しかし、パパは当時結婚というものについて死ぬほど悩んでいたんだそうです。とてつもない才能に満ちたその少年の将来を考えると、自分との同性愛関係に身をゆだねさせてはまずい。彼も自分も正式に結婚して家庭を持ち、子孫を残すという普通の人間の義務を履行する必要があるのではないか。当時、パパはお洒落で美男子だったから女性からは人気があったらしいんです。共通の友人の紹介で偶然ママと知り合ったんだといいます。」

 

 「桜井義人さんはワタシの事をよく覚えてくれていたのね。」

 

 秋一は右手で握ったグラスの小指を立てては、口元に微笑を浮かべた。

 

 「覚えていたどころじゃないですよ。亡くなる直前まで、今まで会った男の中で一番魅力的な男だったと言っていたんですから。そして同時にビックリする事も教えてくれました。その少年は後に東京地裁の判事になり、オウム真理教裁判の時に先陣をきって、全国報道されたとのことだったのです。パパはその業界については詳しかったからね、その少年はオウム裁判に多大なる貢献をして東京地裁を助けたのであり、これは八丈島時代、二人で語った理想が実現したんだとも言っていました。将来、最高裁判事にまで上り詰めるのではないかと陰ながら期待していて、パパは死ぬまで、その少年が途中で退職して法曹界を去った事は知らなかったようなのです。」

 

 沈黙は続き、千鶴子の低い声だけがドキュメンタリー番組のナレーションのように続く。

 

 「その少年、武田秋一さんとはキャリア判事の道が終わったら、つまり彼が退職したら一度再会したいと言っていました。きっと勤続中は児童買春めいた過去があるし、武田さんのキャリアを考えて会うのを避けていたんだと思います。そして、私に、千鶴子ちゃんも法律家を目指すのならば武田秋一さんのような立派な法曹になってくれと何度も言ってくれたのです。だから、今の私があるのはパパと武田さんのおかげでもあるのです。」

 

 一気に喋りまくったせいか、心なし疲れた様子をみせる千鶴子であり、立て続けにビールのグラスを空けた。

 

 「それで、結局、晩年はどんな感じだったの? 」

 

 「昨年の正月明けですかね、病院から私の元に連絡がありました。寿命が尽きるところだったのです。泊りがけで私一人が看病にいったのですが、最後は誰もパパの周りに人はいなくて・・・。でもね、私がいてくれるだけでパパはとても幸せだと言ってくれたのです。」

 

 白いハンカチを取り出し、目元を拭う千鶴子に傍らの旦那も涙ぐむ。

 

 「亡くなる数日前でした。いろいろと生い立ちから始まって思い出話を私相手にするうちに、ふとこんな事を言ったのです。アキくんとは最後に一度逢いたかったんだけど、今世に逢う事はできなさそうだな。その台詞、私はここ一年間ずっと忘れずにいました。」

 

 「それで、なんで今回ここが分かったのかしら。」

 

 「父とそこまでの関係にあった武田秋一さん、私は少し調べてみようと思ったのです。私も法曹界にいる身です。まず司法大観で武田秋一という名前を調べたのですが一切出てきません。武田さんの研修所同期の弁護士を見つけたのですが、彼曰く、謎の退職をしてその後は一切の消息不明だとのことでした。だから、もう私は諦めていたところ、先月でしたでしょうか。武田秋一さんの事が週刊誌に掲載されているのを知った、その研修所同期の弁護士が、私に教えてくれたのです。」

 

 「なるほどね、そういうわけだったのね。」

 

 すっかり事情を把握した秋一は、溶けた氷が喉を落ちていくような気持になった。

 

 「金曜日には店を閉める予定だったところ、最後の最後に、桜井義人さんに逢えたなんて、ワタシは本当に嬉しい。人生に奇跡が起きたような感じだわ。」

 

 「パパに逢えたというのは、どういう意味ですか。」

 

 「アナタは桜井義人さんの分身よ。」

 

 それ以上語らぬ秋一に、千鶴子はふと思いついたように顔を上げた。

 

 「武田さん、パパの写真見ますか。」

 

 えっ、一瞬、背中に奇妙な虫が走ったような気がした秋一である。もはやうっすらとした霞の中で微笑む桜井義人の笑顔である。見たいという気持ちと見るのが怖いという気持ちとで揺れ動き、黙っていると、千鶴子がスマホの画面を秋一の眼前にかざしたのである。

 

 「パパがなくなる五日前の写真です。」

 

 「あっ・・・!」

 

 スマホの画面には、ベッドの上で一人の痩せ衰えた老人が白い瀟洒なパジャマを着て、こちらをじっと見つめていたのである。

 

 しばらく、その写真を見つめる秋一であった。かつての面影がないというより、かつての面影自体、だいぶいい加減になっている。それに加えて、当時から何十年も経っているのである。やはり、瞬間、別人だと思うのが当然だが、眼に見覚えがあった。当時、真面目な話をする時に必ずじっと見つめる癖があり、時空を越えて確かに秋一の記憶の襞が反応したのである。

 

 「義人さん・・・。」

 

 いつまでもスマホの画面を眺める秋一であり、その双眸からは涙が零れ落ちていた。

 

 それから後は、涼子も交え、四人で愉しい会話が盛り上がったが、時計の針が午後の九時を過ぎる頃、千鶴子夫妻は腰を浮かせた。

 

 そろそろお暇したいとの事であったが、今夜は新宿のホテルに宿泊し、明後日には札幌に帰るという。

 

 「そうだ、千鶴子さん、今夜少しだけ付き合ってくれないかしら。」

 

 秋一は知人が経営する界隈のカラオケボックスに二人を誘った。

 

 彼の体調を気にする涼子は渋い顔をしたが、秋一の強い希望で結局店を閉め、三人はカラオケボックスに行くことにしたのである。

 

 「義人さんが得意だった、君こそわが命、これをアナタたち夫婦に聞かせたくてね。」

 

 その晩、三人は終電車を過ぎる時間帯まで尽きぬ話で盛り上がった。

 

 タクシーで深夜に自宅まで戻った秋一であるが、明け方、吐血して緊急搬送される事になる。