日曜日の夕方であった。冴え返る肌寒さも感じたが、全体的に街には春の到来を告げる気配が漂い、あと二週間もすれば桜の開花時期となると思うと、秋一はなんとなく嬉しさと同時に寂しさも感じていた。

 

 今世で桜を観るのは最後になるかもしれない。もはや前進の希望が無くなった代わりに、一日一日を愛おしみ感謝と愛をもって過ごす浮遊感に酔いしれるようになっていた。意識的に酔いしれる事によって、死という不連続性の不気味感を打ち消そうと考えていた。

 

 もはや、不安なのは死の不連続性だけであり、それさえ克服できれば他に思い煩う事はなかった。

 

 ジョージと最近話したのは、二人とも子供が欲しかったという事であり、これは多くのゲイ仲間にあっても聞くところであった。最愛の子供がいれば、自分の亡き後を託す、子孫の心の中に自分の住処を変えることもできたはずだ。つまり、自分は一応死ぬが子供の心の中で姿を変えて生きている、死の不連続性に対する恐怖を薄らぐこともできたはずだとジョージに言ったのだが、彼もその意見に同意してくれた。

 

 「でも、アキさんさ、僕やアキさんのように女を抱けぬゲイが晩年孤独であるのは当たり前だと思うんだよね。それに比べれば、僕たちのように愛し合っているカップルはホントに幸せだよ。ところでさ、アキさん、東京にはホントに何も未練はないのかい。」

 

 来週の日曜日には引っ越しの予定である。

 

 カウンターの中で一人仕込みをする秋一の耳朶には、ジョージが言った、東京にはホントに何の未練もないのかという質問がしつこく残っていた。

 

 未練といえば、一つだけあるかもしれないな。それは大昔十九歳の時に東京にやって来た理由である。あの時、自分が東京に出てきたのは偉くなるためでもなければ、金を稼ぎたいためでもなかった。ただひたすらに当時の恋人桜井義人を追いかけてやって来ただけなのである。それがいつの間にか、こんな人生になってしまったのだから面白い話だな。薄暗い店内で一人微苦笑を浮かべた。

 

 結局、桜井義人には会えずじまいであったが、それも仕方のない事だと最近では割り切っている。彼が生きていたら、そろそろ古希の年齢である。今どこで何をしているのだろうか、結婚して最後オホーツク海で心を病んで蒸発したところまでは辿り着けたのだが、なんとなく日本にはいないような気がした。法律よりもずっと英語の方が得意だったし、国際的なセンスに溢れる人物だった。

 

 ふと昔、自分が高校生の頃、桜井義人が夜一人で御神山公園内の小さな神社前で正座をしていた姿を思い出した。偶然目撃してしまったわけだが、あれは自分の大学進学と立派な成長を必死になって祈ってくれていた事を後で知った。嬉しかったな、あの時の二人の愛は本物だったんだな、改めて感傷に耽る秋一であった。

 

 ドアの鈴の音が鳴り、顔を出したのは涼子であり、自叙伝の打ち合わせも兼ねていた。

 

 涼子は最近S田氏との会話も林崎部長とのやり取りも現場にいて聞いていたわけであり、改めて秋一の偉大な才能に感心していたところであった。さかんに秋一を褒めたたえるような事を口にしていたのであるが、一つだけ黙っていた事があった。秋一を知る人たちには言えてもどうしても秋一本人には言えない事であった。

 

 それは、秋一が同性愛者でなかったら、きっと大変な人物になっていたに違いないという感想である。

 

 他愛ないお喋りをしながら、静かに時間は流れた。

 

 時計の針が七時を示す少し前であろうか、突然、入り口のドアが静かに開いた。

 

 黙って、男女のカップル一組が入店し、先頭の女性が軽く眼で会釈をした。

 

 「どうぞ。」

 

 風車は会員制であるが、最近ではあまりこだわらず入店を許可する秋一である。週刊誌に自分の記事が掲載されてから、思わぬ人が来店してくれる事もあり、そもそも来週の金曜日には店を閉めるわけなのだからお客にも一期一会の愉しみを味わってもらいたいという意識もあったのである。

 

 二人のカップル、三十代半ば位であろうか。男性の方が外見的に少し年上にみえる。ともに正装なのは仕事帰りのようにも思えたが、今日は日曜日だから少し首を傾げた秋一であった。

 

 男性は濃紺のスーツに水玉模様のネクタイを締め、とても爽やかな印象を与える紳士であり、女性の方は淡い色のドレス姿が似合う女性アナウンサーのような雰囲気を有しており、やはりお似合いの夫婦のような感じがした。

 

 身に覚えがない客であれば、必ず自分の方から紹介者を訊ねる秋一であったが、最近ではなんだかそんな事さえ気にならなくなっており、笑顔で注文されたビールと簡単な料理を提供しては、隣席の涼子と先程からの会話を続けるのであった。

 

 しかし不思議だなと思ったのは、このお洒落な男女のカップル、カウンターに着いてからというもの、とても友好的な態度ではあるのだが妙に静かなのである。時々、小声で会話を交わす以外、ともに黙ってビールを口にするだけで秋一に対しても声をかけない。

 

 愉しんでもらえばそれでいい、癒しのひと時を感じてもらえればそれでいい、秋一のプロ意識は研ぎ澄まされたものがあり、客の満足度というものは直ぐに分かる。この若い男女のカップルを推察するに黙っていても大変な満足感を得ているような気がした。特に女性の方が自分の家に帰って来たような平穏な笑みを先程から表情に張り付けており、どうも男性はそれにご相伴している感じであった。

 

 やはり、秋一には不思議な客の二人組であったのだが、しばらくして女性の方が二本目のビールを注文した時、視線が絡み合った。

 

 その時である。女性の方から妙な言葉が口走られ、店内は騒然となるのである。