下田旅行から帰って来て、秋一は風車二号店についての最終調整段階に入っていた。物件は新宿御苑前駅近くの裏道に飲食店が連なる路地があり、かつてアレナの名物お父さんがいた地に近い。大きさは一号店より少し大きい程度だが、昼間から夜に続くLGBTがおもてなすダイニングバーを考えていた。大森理事長達の活動とシンクロするところもあり、秋一を慕う多くの人達が協力してくれることになっていた。

 

 夏が思い出に変わり、空の色や風の中に秋の訪れを感じさせる九月の最終週のことである。最終的な不動産屋との店舗賃貸借契約日が翌日に迫った火曜日、秋一は自宅で一人ふと考えた。下田の旅行先でジョージが何気なく語った言葉がまざまざと脳裏に蘇ったのである。

 

 新しい事をやるときは、占い相談をやってみた方がいいのではと彼は言ったが、おそらくそれは秋一の新規事業に不安の目を持って口にした言葉ではないだろう。事実、ジョージは秋一の全能的力を誰よりも信じており、今回の二号店については最も成功を信じている一人なのである。多分、余興で占いでもやってみたらどうかという軽い気持ちだったのであろうが、あれ以来、なぜか秋一の記憶に残っているのである。

 

 占いか・・・。

 

 秋一はジョージ以上に合理主義的なところがあり、昔ユング心理学で共時性の理論を学んだ時以来、占いなどに興味を抱いたことはなかった。

 

 それじゃ、今、自分で自分を占ってみるか。

 

 秋一は誰もいない部屋で思い出し笑いをするかのようにニヤリとして、遊び心を覚えたのである。百円硬貨を宙に放り、表が二回出たら大成功、一回出たら成功、一回も表が出なかったら失敗というルールを勝手に作って財布から百円硬貨を手にした時だった。

 

 うっ・・・。

 

 突然、背筋に冷たい風が走ったのを感じた。右心房の中で不気味な寺の鐘が鳴ったような気がしたのである。やがて、暗い夜の高波が網膜にザザザという音を立てて襲ってきたのである。一瞬、百円玉を握った右手が金縛りにあったように動かなくなり、突然どうしようもない恐怖で硬貨を宙に放ることができなくなったのである。

 

 時間にしたら三十秒もしない出来事であったが、秋一の表情からは笑みが消えた。

 

 ヤバいぞ・・・。

 

 それだけ心中に呟くと、慌てて不動産屋に電話をし契約締結をキャンセルし、その後取り憑かれたかのように次々と関係者たちに連絡をしては二号店の件は白紙にしてほしい旨伝えだしたのである。勿論、それなりのペナルティもあったのであるが、秋一の決意は固かった。

 

 それから数か月後、人類最大の敵が突如として出現した。世界中で猖獗をきわめる新型コロナウィルスであり、少し遅れて絶望的なパンデミックが日本列島に襲来した。

 

 三月には国内において自粛モードが一色となり、四月には安倍総理大臣による緊急事態宣言が発せられた。

 

 まん延防止法や時短営業要請などによって、もっともダメージを受けたのは間違いなく飲食業界であった。飲食業界にあっても酒をメインに提供するような店、しかも個人営業のような店は絶望的な状況であり、新宿界隈でいえば、歌舞伎町の飲み屋街やゴールデン街、それに思い出横丁や新宿二丁目、三丁目等の酒場はこのままでは大部分が閉店に追い込まれると噂された。

 

 とりわけ、新宿二丁目は存続の危機とまで謳われ、さすがの秋一も青ざめてしまったのである。

 

 何事においても的確に先を読んで今まで成功をおさめてきた彼であるが、今回ばかりは青天の霹靂であり、どうしようもなかった。

 

 ただ、ジョージが言うには、二号店オープンを直前になって回避したのは秋一の動物的本能に基づくものであって、回避しなかったら大変な事になっていたと意味で、やはり秋一は偉大だということになる。

 

 秋一が経営するようなゲイバーというのは水商売を水商売するという面もあり、深夜から明け方にかけてクラブ勤めを終えたホステスや従業員等を相手にする事が多い。時短営業も酒類提供制限もあり得ない話であり、実際何店舗かが廃業するのを横目に、彼自身も進退を考えざるを得ない状況に陥っていたのである。

 

 自宅であるワンルームマンションの家賃はさほど高くなかったが、風車の店舗家賃と合わせると結構な額となり、これを月々支払うためには貯金を崩さなければならない。貯金を切り崩して生活としたとしても二年間で破綻する。パンデミックがいつまで続くか、これはさすがの秋一にも予測不能であり、当時は永遠に続きそうな予感さえした。もし自分に子供がいたらと思うとゾッとした。

 

 もう駄目だな、秋一はジョージに相談して店を畳もうと考えた。様子をみて、行政書士か司法書士の資格を活かす道を考え出したところで、東京都から行動制限に協力する飲食店に対して協力金が出ることになった。困っているのは飲食店だけではないが、貰えるものは貰っておこうという気持ちで受領するようになった秋一である。一日当たりの協力金を考えると大きな飲食店では勿論それでも赤字であるが、彼のような小さなバーでしかも独身者には、意外にも生活を支えるのに十分な金額になったのである。

二〇二一年はごく短い期間しか営業を再開できなかったが、協力金の存在は大きかった。

 

 年が明けて二〇二二年から少しづつ客が戻ってきたきらいはあるも、それは食事のついでに酒を呑むという形態の店についてであって、秋一のような深夜のバーなんていう世界では、全盛時の半分も客が入れば御の字だったのである。

 

 しかし、彼の予測としては、少し明るいところがあった。確かにコロナ下におけるライフスタイル、飲酒スタイルの変化によって以前のように客が戻ってこないのは当然であるが、自分のような店であっても営業スタイル、特に営業時間を変えれば、巷間言われるよりも早く元に戻るのではないかと踏んでいた。

 

 そのためにも、秋一は営業スタイルを変えたのである。得意の料理を充実させダイニングバー化させるのと同時に営業時間を夕方から深夜までにしたのである。少しづつであるが常連客が何人か戻ってきてくれたことに加え新規のお客さんも現れた。得意の創作料理は評判がよく、なんだかいい歳をして新しく出直すような感じがしたが、人生これからだと感じ出した真夏の時季である。

 

 体調に異変を感じた。