底冷えのする夜だった。早いもので、東日本大震災から丁度四年の歳月が経つ二月の終わりである。

 

 秋一も十月にはいよいよ五十歳の誕生日を迎える。彼が常々周囲に語っていたのは、若いといえるのは五十歳までだということであり、同時に知命という言葉の意味をよく噛みしめなければならないということである。

 

 しかし、いざ自分の内で特別視していた五十歳になるという事実については、さほどの実感がわかなかった。身体も健康であるし、体力に衰えはまったく感じない。鏡を見ても三十代の頃に比しさほどに老けたようには感じなかった。

 

 その晩、大森理事長が部下のような存在である二十代後半と思しき女性を連れて店に顔を出したのは、店明け前の七時を少し過ぎた時間帯であった。他の客に邪魔にならないように、最近、秋一は彼らが来店することが分かっている日は七時から店を開けるようにしていたのである。

 

 「アキさん、紹介させてください。彼女、羽根さんといいまして、光の会で最近渉外担当をするようになった人です。」

 

 カウンター越し、行儀よく頭を下げる彼女であり、両手がそれぞれ太腿の上にのせられていた。長年この世界にいる秋一には、一目で彼女がレズビアンであることは分かった。化粧っ気のない角ばった顔立ちと分厚い銀縁の眼鏡が特徴的であった。色気のある二十代女性とは対極で、かつ暗いイメージがあった。一見すると何かの宗教に取り憑かれているような印象もあるが、話してみると人権派の女性弁護士か女性政党党首のような弁舌ぶりで、常識と前進を座右の銘とするような素敵な真面目さを感じた秋一である。

 

 「羽根さんは大学時代にLGBTサークルの代表になりましてね、非常に人望が厚いんですよ。その後、学生自治組織のトップまで務めたわけでして、非常に将来が楽しみな活動家なんです。」

 

 自分の主宰する団体に新しく加入してきた彼女を思いきり持ち上げる大森であるが、彼女自身は少し照れ笑いを浮かべるだけで凛とした表情を崩さないでいた。

 

 「大学サークルって、どんな活動してるの? 」

 

 秋一の学生時代には夢想だにできなかったサークル名であり、興味があった。

 

 「ええ、やはり仲間同士の親睦が第一になります。活動内容としては勉強会とか座談会とか、そういう席で仲間のカミングアウトの時期や方法を一緒に考えたり、悩み事の解決を皆で図ったりしております。あとは啓蒙的なイベントの開催などです。」

 

 彼女が秋一に対して最大限の礼節を保っているのは傍からでもよく分かる。それがきっと上役である大森の秋一に対する敬意と感謝に基づくものであることもよく分かる。

 

 「それはいい事だね。どんどん発展してもらいたいな。」

 

 秋一の温厚な喋り方に珍しく怖いくらいに強い響きがあったのは、頼もしい後輩に対する激励の意味もあったのだろう。

 

 「そこで、武田先生。ご相談があるのですが・・・。」

 

 いつの間にか呼称が先生になっており、ビールのグラスを置いて、身を乗り出す彼女の肩を制したのは隣の大森理事長であった。

 

 「ここから先は私が話そう。」

 

 急に硬い表情になった大森は秋一と羽根、交互に視線を彷徨わせては、急にこんな事を言い出したのである。

 

 「いよいよ、今年の秋からパートナーシップ宣誓制度が東京都で実現することになりそうです。これは同性婚に向けた、日本では画期的な制度であることは、アキさんもよくご存知だと思います。」

 

 なぜか言葉を区切り、彼が好きな風車オリジナルのトマト新酒で唇を湿らせた。

 

 「まず、これについてアキさんはどのようにお考えでしょうか。法制度についてはプロのようなアキさんですし、何よりも私にはアキさんの一言が金言なのです。」

 

 秋一は考え込む時、普段より柔和な可愛い顔つきになる。今夜は茶色地のエプロンであり、その下にはブランド物の白いセーターを着こんでおり、腕を組んで小考する姿には、男でもなく女でもない独特の色気があった。

 

 「あぁ、あれね。ワタシも素晴らしい制度がいよいよ発足するのかと思うと、感慨深いものがある。だけど、どうなんでしょう。根付くまでに少し時間がかかるんじゃないのかな。」

 

 「と言いますと。」

 

 カウンターにいる二人の目が光った。

 

 「LGBT当事者には広く行き渡っても、一般の人たちにはいつまで経っても興味関心のない制度であり、認知どころかなかなか認識してもらえないと思うんだよね。これが同性婚だったら別だけどね。そもそも当事者にとっても、少し難しいんじゃないのかな。大体、法律に詳しくない人は法律と条例の明確な違いが分からない人も多いし、東京都の世田谷区と渋谷区でしたっけ、そこだけから始まるというのもピンとこない。それにさ、東京都で条例に定めた上で、例えば八王子市でも定めるという場合もあるんだという説明も分かりにくいよね。」

 

 「先生、内容的にはどうですか。」

 

 黙っていた羽根女史が、低い声で訊ねた。

 

 「やはり、同性婚とは全然違うよね。夫婦間における法的効力が認められないし、男女の内縁関係に認められることさえ認められない。まあね、生命保険や住宅ローンの問題等、事実上の不便がなくなり、社会保障的観点から有益さも認められるよね。」

 

 「先生、私たちにはどうも同性婚とパートナーシップ制度との関係について法律的にしっくりこないところがあるんです。普通の当事者は興味津々でも内容を正確に把握していない。この際、制度発足にさきがけてガイドブックを作成しようかと思っているのですが、ご指導願えないでしょうか。」

 

 羽根女史が立ち上がって頭を下げ、大森理事長も神妙な顔で秋一を見つめた。

 

 「アキさん、これ以上言ったら嫌われるので、本当に最後の依頼ということにさせてください。どうでしょうか、パートナーシップ制度、そして同性婚に向けての派遣講師のようなものをウチでやっていただくことは可能でしょうか。お店に支障をきたさないように年に数回でかまいません。」

 

 今まで代筆以外は断り続けてきた秋一であるが、なんだか大森理事長が気の毒に思えてきた。しかも、相当な金額を提示している。そして、その派遣先を聞いて驚いた。日本人ならば誰でもが知る一流企業や自治体、有名大学である。

 

 「大森さん、ワタシがなぜ表に出ることを今まで断ってきたか分かりますか。一つはワタシが判事時代に刑務所や拘置所に送ってやったヤクザや半グレを代表するアウトローたちからの報復が怖かったというのがある。でもそれだけじゃないんだよ。少年時代から、脚光を浴びる表の世界で目立つことに二の足を踏む癖がしみついているからなんだよね。ワタシが若い頃には、LGBT問題なんていうのは世間の俎上にも載らなかった。周囲からは異常者扱いされていたものだ。まして、ワタシの場合、狭い田舎の島で育ったわけです。確かにパートナーシップ制度というのは一歩だけ前進という印象を抱いている。だから、分かりやすいガイドブックを大森さん名義で作成することだけ協力させてもらうということでどうでしょうか。」

 

 カウンター前の二人には、なんとなく理解ある微笑の風が漂っていた。

 

 「しかし、同性婚は難しい問題だよ。ゲイの中にはね、ワタシもそうだったけれど、暖かい家庭を持ちたい、そして子供も欲しいという願望を死ぬ思いで諦めた人も多いというのは分かるよね。まあ、今後同性の結婚相談所なんてのも出てくるとは思うけどね。でもワタシが思うにはね、ビアンの世界は分からないけれど、ゲイの世界では非常に奇妙な結婚形態が出てくるような気もするんだよね。」

 

 秋一の先見の明には、何度も驚かされている大森理事長だが、次の予言めいた言葉を聞いては息を呑んだ。

 

 「奇妙な結婚形態といいますと・・・。」

 

 「友情結婚とでもいったらよいのかな、ワタシの時代じゃ考えられない話だけどね。まあ、これはあくまでもワタシの推測だけどね。要するに、女性との友情を結婚にまで高めるということかな。」

 

 大森理事長と羽根女史は、唸るような素振をしてから、またしても顔を見合わせた。