大学一年次の夏休み、帰省したがすぐに東京に戻ってきた秋一は、既にして自分は島民ではないことに気づいていた。それは島を発った多くの若者と同様であり、そもそも彼らにとって東京は遠い存在ではなく、ただ大きく深い海が隔てた隣町のようであった。その点が他の例えば沖縄や奄美などの島民とは違ったところであるが、海の深さと広さとが限りない遠近法をもたらしていたのは事実である。その夏、高校の同窓会が中野サンプラザホテルで開催される知らせが届いたが欠席した。

 

 帰省後、今後の大学生活の目標を具体的に考えた秋一である。法律を学問として捉えるのと同時に各種国家試験の受験科目として具体的に考えることも大切だ。自分の法的知識がどの程度のものか、法律系の国家試験を片っ端から受験してみよう。まずは記念すべき第一回目として秋に行われる宅地建物主任取引者試験をと考えたのである。早く義人とも再会したいと念じていた。

 

 当時の宅建試験は今に比べれば難易度が低かった。法曹を志す一流大学の法学部学生は殆ど受験せず、これは今も同じだがとにかく仕事で必要とする社会人受験生が多かった。時代が時代だけに不動産の専門資格である宅建資格は需要が高く、都内マンモス大学で受験した秋一は休日のお祭り騒ぎのような試験会場に圧倒される。年配の方が多いなということ、そして歌舞伎町にいる極道のような受験生が多々見受けられたのが印象的であった。

 

 宅建が今と比べて難易度が低かったといっても、当時も受験生の半分以上は落ちるわけである。しかし、当時ブームとなり出した国家試験の総合受験予備校R校で自己採点した秋一は驚いた。何と満点だったのである。ということは全国受験生の内第一位ということになる。R校のスタッフにその旨を伝えたのは、一度だけ秋一もR校においてお金を払って直前総整理講座に通った事実があったからで、お礼を言おうと思ったからである。しかし、なぜかその日、スタッフを通して秋一は校長室に招かれた。校長先生曰く、現在当予備校は司法試験だけではなく需要の高い宅建試験の対策講座にも力を入れている、我が校の広告宣伝のためにパンフレットに合格体験記を書いてくれないかと頼まれたのである。

 

 少し考えたが、秋一は了承した。その代わり、その合格体験記には、一言だけ高校生の時、八丈島で法律を教えてくれた人がいるということ、自分の実名を出してもらうということを条件とした。これはおそらく今でも日本のどこかで法律に携わっているに違いない義人に対するラブレターになると考えたのである。おそらく、こんなチンケな広告記事に義人が目を通す可能性は小さいが、どうだろう今後このように自分の名前を世に知らしめれば知らしめるほど、義人の目に触れる可能性は高くなる。今、自分はここで貴方との再会を夢見て頑張っている、そんなラブメッセージを今後発信しつづけようと思いついたのである。武田秋一、八丈島、高校二年生から法律を学び始める、これがそのメッセージの内容である。その時は、このようなラブメッセージが後年日本中に響き渡るようになるとは夢想だにしなかった。

 

 翌年は少しレベルを上げて行政書士試験を、翌々年の三年次には司法書士試験をと決意した。そして、最後の四年次には司法試験と国家公務員試験を受験しようと考えた。かてて加えて、法律系月刊誌の学術論文コンテストへの発表も試みだしたのである。

 

 宅建試験の合格発表後、土曜日の晩、秋一は新宿二丁目の「花屋敷」へ移動し、口開けからジンベースのカクテルを呑んでいた。最近では、土曜日は丸一日休養日としていたのである。

 

 薄暗い照明に店内一杯の花束が白い光を落としていた。カウンターには花ママしかいなかった。

 

 「アキくんさ、最近、林さんとは会ってるのかしら。」

 

 「最近はあまり会ってないな。そういえば、連絡もないね。ここには来てるんですか。」

 

 「いえ、もう来ないわよ。」

 

 ランディ・バース選手然とした花ママは、どこかの大学サッカー部のユニフォームを模したようなポロシャツ姿で秋一の目を見た。

 

 「どうかしたんですかね。」

 

 「出入り禁止にしたの。」

 

 えっ、秋一は呑んでいるカクテルが一瞬喉に詰まったような気持になった。

 

 林氏といえば、最近は会っていないが、自分にいろいろな事を教えてくれた或る意味ゲイ的恩人でもある。外見的コンプレックスが強くそれを克服せんとユニークなキャラの魅力を作り上げたと語っていた、愉しい人だった。少し気弱なイメージがあったが決して酒癖の悪いタイプでもないだけに、秋一は何度も首を傾げるのであった。

 

 「彼、警察に逮捕されたのよね。」

 

 今度は呑んでいる酒を吐き出しそうになった秋一であった。瞬間、自分の学んでいる法律の世界がバーチャルではなくなったことに衝撃を受けた。