「まあ、そんな感じ。東京生活での憧れとか、将来のビジョンを見据えてとかそういうわけじゃなくてね。最初はその桜井義人さんを追って上京してきたというのが本心かしらね。」

 

 五十七歳になったアキこと武田秋一は、病疲れこそ見受けられるが年齢的な衰えを感じさせない若々しい表情を崩さず、涼子を見つめた。

 

 八丈島から上京するまでの数奇な青春時代を懐かしそうに回想するアキであり、熱心に聴く涼子であった。陽だまりの白い病室のベッドで親密に会話を交わす二人の姿は一見大人の恋人同士の趣きがあるが、なぜか普通のカップルや夫婦には見えない不思議なオーラも漂わせていた。

 

 「それで、その桜井義人さん、彼とは上京して会えたんですか。」

 

 無口だが話の上手いアキの青春談にすっかり心を奪われた涼子は興味津々話の続きを促した。

 

 「いいえ、今に至るまで一度も会えないわよ。だから、今度の二十五周年記念パーティーにはね、時空を越えて招待したいなんて思っちゃったわけ。でも、彼今元気でいたとしたら六十九歳でしょ。どこで何をやっているのかしらね。そもそも、なんで突然ワタシの前から消息を絶ったのか今でも分からないのよね。ワタシの人生の七不思議の一つなのよね。」

 

 「なんかロマンチックな話だわ。」

 

 ベッド脇のスツールには不似合いな高価そうなパンツであり、ボリュームのあるヒップであることからか、涼子は無意識に腰を上げては何度も臀部の位置をずらしている。

 

 「涼子ちゃん、時間あるなら地下の喫茶に行こうか。缶コーヒーじゃ飽きるでしょ。パフェでもご馳走するわ。それから屋上にでも行かない?」

 

 「うん、今日は仕事ないしね。」

 

 涼子の手で車椅子を押してもらい、病室を少しだけ出ることをナースに知らせるアキである。

 

 午後も遅い時間帯とあってか、地下の喫茶室は空いており、二人は最奥のテーブル席に腰を下ろした。茶系統のソファに埋もれるように腰掛けるアキであり、面前で熱心に話を聴く涼子の肉感的な肩越しに初めて東京に出てきた頃の生活がセピア色のシーンとなっては鮮やかに浮かび上がってきた。

 

 あれからもう三十七年の歳月が経つのか・・・。

 

 彼女の肩越しに浮かぶセピア色の光景たちに向かって、独りごちるアキであった。

 

 昭和六十年四月、秋一は私鉄小田急沿線の駅から随分と歩いた先の木造アパートの一室を賃貸した。一間であるが、バス・トイレ付きであり満足していた。勉強机と小さなちゃぶ台、それに箱型の電子レンジのようなテレビを置くと一間はいっぱいになった。

 

 四月からすぐさま法律の学習に入ろうと思ったが、その前にやっておかなければならないことがあった。一つは連絡の取れない桜井義人に上京の挨拶をすることであり、もう一つは散々義人に聞かされた歌舞伎町と新宿二丁目の探検であった。

 

 入学式は土曜日に行われ、翌日の日曜日、秋一は当初の予定通り義人の住む裁判所官舎を直接訪問することにしたのである。

 

 彼の声を最後に聞いたのは、大学受験一週間前に激励の電話があった時以来であるから、かれこれ二か月近く前になる。

 

 一体全体、どうしちゃったっていうんだろう。病気か何かの事情があるのだとは思うが、彼が自分を放って逃げ出すわけがない。

 

 秋一は日曜日の昼下がり、同じ小田急沿線経堂駅にある義人の官舎まで地図を見ながら赴いたのである。

 

 官舎は商店街を抜けたすぐ先の路地を曲がったところにあった。白い瀟洒なブロック塀の内には、小綺麗な公団団地が三棟だけ並んでいるような状態で、色彩豊かな花壇と小さな子供用の公園が日曜午後の長閑な空気を醸し出していた。

 

 秋一は何度も見ている手紙の住所地を暗記しており、301号室を目指した。階段が真っ白く新しいのは竣工後さほど時間の経っていない証左であり、一階の狭い集合郵便受けを見ると、全室に名札が付いているわけではなく301号室もそうであることに気づいた。

 

 301号室の前に立ち少し緊張した。久々に逢う義人に何と言えばよいのか、最後に直接会ったのは去年の夏休み彼が島まで遊びに来てくれて以来である。今回自分にここまで連絡をしてこない理由を考えると少し怖いものを感じたが、少しの勇気を出して薄緑色の扉に設置されたベルを鳴らした。