オフィスカジュアルに大き目なトートバッグを抱えて、新宿西口交番前に現れた由貴子は心なし疲れているようにみえたが、シトラス系の爽やかな香りが、達朗にとっての強い存在感を醸し出す。
最上階のフレンチレストランで、乾杯するよりも前に、由貴子は明日への期待を口にした。
「いよいよ明日ね、調子はどう?」
「悪くはないね。ただ試合時間が長いので、目が疲れたり頭痛が起きないようにとは思ってるよ。それより、由貴子さん、疲れてない?」
「えっ、ワタシ。そんなことないけど、ちょっと仕事が忙しくなったのよね。もしかしたら、近々海外出張があるかもしれないわ。」
「そっか、それならさ、明日のセコンド無理しなくてもいいからね。一人でなんとかするからさ。」
何気なく口にした達朗だが、瞬間、彼女の瞳に悲しみの影が縁取るのを見出した。
「そんなこと言わないでよ。アナタ、以前に言ってくれたでしょ、師弟不二だって。ワタシ、あのとき、すごく嬉しかったのよ。」
恨み言を口にするようで、由貴子の瞳から悲しみの影はなかなか消えない。
慌てて頭を下げては何度も謝罪する達朗であった。
気まずい雰囲気が少しだけ流れたが、ワイングラスを重ねてから機嫌を取り戻し、いつものように快活に話しだした由貴子である。
「アナタ、最近瘦せたんじゃないの。それになんだか顔つきが良くなったわよ。」
容貌に関する極度のコンプレックスの裏返しか、達朗にとっては何よりも嬉しい誉め言葉であった。
事実、大会へのプレッシャーで五キロ位痩せていた。
ニヤニヤする達朗に由貴子は更にこんなことを口走る。
「初めて逢ったときに比べればね、本当に見た目が変わったわよ。不思議よね。」
顔も発達する、そこにも自分は障害があったのだ。由貴子と知り合った頃の自分の容貌を思い出してみると、身体の成長に著しく遅れた保護を求める幼児のような顔つきであり、そういう意味での醜さが他人に不快感を与えていたんだなと妙に得心してしまう。
由貴子に言われて実感したのは、顔も状況次第で発達し変化するということである。
そこからふと考えをめぐらせた。
俺のように発達障害を直したいと努力する人間にとっては、未来は変えられないかもしれないけれど、過去は変えられるのではないかということである。過去を変えるというのは、過去を上書きすることである。
黙り込む達朗に由貴子は更に言葉を継ぐ。
「日本代表に選ばれたらさ、来年の夏一緒にオーストラリアに行くって約束したよね。ワタシ、それがすごく楽しみなんだけど、プレッシャーに感じたりはしないでね。アナタなら、まだ若いし今年駄目でも次があるんだからさ。」
一年間正式に大学を休学し、チェスに邁進しオリンピックで由貴子と一緒にオーストラリアに行ける。甘い夢が風船のように胸に膨らむとともに、明日はなにがなんでも勝たねばならぬという気持ちで胸にバンドを締め付けた。
美しく飾り立てられたテーブルクロスは料理を載せたまま、時間をかけてゆっくり夜景に沿って移動するのが店の趣向だ。半刻程で元の位置まで一周する。
高い天井にはシャンデリアが眩しく、眼下に広がるネオンの光は、幾何学模様の建物を幻想的に映し出していた。
由貴子がトイレに立った際、達朗はふと夜景に目をやった。
東京タワーの向こうだろうか、光の限界あたりに、黒い一角が視界に入り、東京湾かなと思った。煌びやかな夜景の美しさは、達朗の前途を祝福するかのようで、イルミネーションによる華やかな開幕ベルが鳴ったかのような感じもした。しかし、巨大な角砂糖が重なり合う光の糸に、達朗はふと思ったのである。
俺は一体どこから来て、どこに向かっているんだろうか。
明日からの大会でなんらかの解答を得られるような気がするな。全身全霊、今までの人生で一番の力を発揮してみようじゃないか、心は熱く燃えるのであった。