弥生時代前期の収穫は、石包丁による根刈りが中心であったが、弥生時代後期に鉄製農具が普及すると、鉄鎌による穂首刈りが一般的となった。

→石包丁による穂首刈り、鉄鎌による根刈り

 

邪馬台国のもとでは、金属製品の加工技術を持つ渡来人が韓鍛冶部として組織され、武器や農工具の生産に当たった。

→邪馬台国ではなく、ヤマト政権

 

仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳が盟主的位置を占めるとされている古墳群の名称

→百舌鳥古墳群

 

紀古佐美・・・伊治呰麻呂の乱の際に活躍。789年、征東大使(征東大将軍)として胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしたが、阿弖流為の軍に大敗。

 

10世紀前半に反乱を起こした平将門は、怨霊として恐れられるようになり、これを鎮めるため、京都に北野天満宮が作られた。(誤文)

→北野天満宮は菅原道真の怨霊を鎮めるためにつくられた。

 

11世紀には、密教が皇族や貴族たちの支持を集める中で、藤原道長によって金峯山に法成寺が建てられた。(誤文)

→密教ではなく浄土教。金峯山ではなく京都。

 

12世紀には、朝廷によって国司の交代制度が整備されるなかで、任国に赴任する国司の最上席者は受領と呼ばれるようになった。

→10世紀

 

「太平記」は室町幕府の九州探題に任じられた今川了俊がまとめたもので、14世紀後半に成立した。(誤文)

→今川了俊がまとめたのは「難太平記」。

 

14世紀になると、嫡子単独相続から分割相続への移行が顕著となるなかで、武士団内部では所領をめぐる紛争が激化するようになった。(誤文)

→分割相続から嫡子単独相続

 

法然は、念仏を唱えれば、極楽浄土に往生できるという専修念仏の教えを説き、その教えは二条良基をはじめとする公家らに広まった。(誤文)

→二条良基ではなく九条兼実

 

一遍は、踊念仏によって多くの民衆に教えを広め、その姿をモデルにした康勝の肖像彫刻は、六波羅蜜寺に伝えられている。(誤文)

→康勝の肖像彫刻は、一遍ではなく空也のもの

 

虎関師錬の仏教史書→元亨釈書

 

豊臣秀吉は、京都に新築した聚楽第に後水尾天皇を迎えて歓待し、諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。

→後陽成天皇

 

豊後にサン・フェリペ号が漂着し、乗船していたウィリアム=アダムズやヤン=ヨーステンは、徳川家康の外交・貿易の顧問となった。

→リーフデ号

 

朝鮮との講和が実現した後、対馬藩主の宗氏と朝鮮との間で癸亥約条が締結され、釜山に倭館が設けられた。

→己酉約条

 

島津家久による琉球征服を経て、琉球王国は薩摩藩の支配下に入り、中国との貿易を中止した。

→琉球征服後、琉球王国は実質的に薩摩藩の支配下におかれたが、中国との貿易は継続しておこなわれた。