この小説は純粋な創作です。

実在の人物・団体に関係はありません。





 

「興津のものとは

 そちらが勝手におっしゃること。

 いつわれらが興津と申しましたかな?」

 

駆けてきた熱がいまだ収まらぬ馬がぶるっと鬣をゆらす。

 

「そうですな。

 では、

 この鷲羽の庭先に前触れもなく立ち入られるは、

 如何なるお方なのか、

 ますます知りとうなりました。

 

 この鷲羽でもない。

 信義を交わした興津でもない。

 どなた様でございましょう。」

 

 

老人は

くっくと笑い出した。

 

「そうさな。

 長はいかがお考えか、

 伺ってみてもよろしかろうか。

 一の臣、

 深水殿、

 われらが預かり子たづが、

 よう申しておった。

 

 おもしろき男よ

 かの者ほど勾玉を信じておる者はおらぬ。

 そして、

 かの者ほど疑うておる者もおらぬとな。

 

 会えること、

 楽しみにしておった。

 

 勾玉を疑うお方、

 わしは鷲羽の長に伺いたい。

 はて、

 われらは何者であろうな?」

 

神渡を見るでもない。

老人は穏やかにただ深水を見ていた。

深水はすっと膝を立て、

身を屈めたなり庭を進んだ。

 

朔夜は

足許に深水の頭頂を見て

驚いたように神渡を見上げる。

一つ一つ、

雛が親鳥を見上げるように己を見る朔夜が

神渡の心を愛しさで満たす。

 

「長、

 あの者が

 長のお答えを望んでおります。

 この深水もお尋ねしたい。

 

 祭は明日、

 まもなく潔斎の刻限とあいなり申す。

 お客人をもてなすは我が勤め。

 いかなるお方であるかを知らいでは、

 挨拶の言上もできませぬ。

 

 それなるものは

 この鷲羽にとって

 客分とみてよろしいものや否や

 お答えください。」

 

深水は頭を垂れたままだ。

黒猫を見たくないのかもしれない。

だが女怪が意味もなく己を動かしたことはない。

雨乞いの折りに始まり、

それは深水にとって啓示にも似たものなのだ。

 

 疑うな

 勾玉が何かを起こそうとしているなら

 この祭を前に

 知っておかねばならない

 

〝興津からお客人よ

 あなたは

 すぐ行かなきゃだめ〟

 

神渡は

朔夜に微笑み、

老人に向き直った。

 

「御老人、

 我が屋敷の有様、

 お教えいただき感謝する。

 そちらの姫も御心配なさるな。

 姫の災難には狼藉者の侵入を許した我らも

 いくばくかの償いをさせていただく。

 祭を楽しみなされ。

 深水、

 たしかにお客人だ。」

 

深水は

はっと頭を下げ、

老人はにっこりと先を促した。

深水は

ゆっくりと顔を上げた。

朔夜の腕には黒猫がそしらぬ顔で収まっている。

神渡は

朔夜の顔を見下ろしていた。

 

「興津では

 この朔夜の親を引き受けていただき、

 鷲羽との縁を祝うていただいた。 

 そのお気持ちは有り難い。

 興津からの餞は既にいただいている。」

 

甘い声音だった。

低くあやすように神渡は語る。

朔夜の腕がゆるむ前に

黒猫はストンと地に下り立った。

それにも気づかぬように白い指先が神渡の胸に誘われていき、

その頬がぴたりと寄せられた。

 

神渡が

その背を優しく撫でるのを

一同は待った。

「きれいじゃのう……。」

童女がぽつんとつぶやいた声が一同の静寂を

より深める。

 

美丈夫の神渡であったが、

朔夜の姿はその腕の中にあって輝く。

老人の言う一茎の花は

その身に長の情を注がれて匂い立つ。

その花弁の一片の震えまでが心を打つ光を発していた。

 

 

朔夜が

もう己の心音しか聞いてはおらぬと見澄まして

神渡は穏やかに言葉をついだ。

 

「御老人は興津の方ではない。

 我は関所を通った。

 険しい岩戸でな。

 試された。

 

 勾玉を試したか

 勾玉が選んだものを試したか

 試して勾玉には納得いただいた。

 岩戸の衆を導いたは勾玉であったことはな。

 はるか海を越えておいでになったという。

 

 まだ納得いただいていないのは、

 我が月を抱く日であることと思う。

 それゆえお訪ねになられたのだろう。

   

 違いますかな?」

 

神渡は老人を見る。

タケルは童女の手を離した。

その手がだらりと下がる。

負うた剣が神渡に見えぬではないが、

神渡の手は朔夜の背を離れなかった。

 

「お見事!

 勝負ありましたな。

 タケル、

 ここはお前の負けじゃ。

 抜くなよ。

 巫が目を覚ましてしまう。

 祭のお邪魔になろうよ。」

 

老人は

ひょいと童女の頭を撫でながら

タケルを覗き込んだ。

小さな老人がどんな顔を見せているのか

神渡には見えず、

その小さな後ろ姿は穏やかそのものであったが、

己に挑んだ若者が顔を背け

その闘気が失せていくのは見て取れた。

 

 

「このざまを見られましては

 語るまでもない。

 まあそんなろころで

 一の臣殿には腹に収めていただけますかな?」

 

タケルの始末がつき、

くるりと深水を見返った老人が楽しげに問うた。

深水は黙って頭を下げた。

 

 勾玉か。

 ……。

 

興津の名代とは

その身なりを見たときから思ってはいなかった。

黒猫が目の前にきて座り込んだ。

 

〝恋敵になれそうもない

 って思ってる?〟

 

〝何が恋敵だ。

 先ほどの様を見なかったのか。

 巫の手から落とされたくせに。〟

 

〝ばっかじゃないの?

 自分で下りたげたのよ。

 月ちゃんはね、

 あの子を見ると反応するの。

 あんたには反応しないでしょ?

 一の臣さん。〟

 

〝普段なら自ら一の臣などと名乗るものか。

  お主が引っ張ってきたのだぞ。

 わけも分からず飛び込んだなら

 身分でしかものは言えぬわ〟

 

〝ばかの意味もわかんないの?

 どうでもいい男に反応なんかしないって言ってるのよ〟

 

 

突如

朗々と澄んだ声が響いた。

 

「勾玉に呼ばれし者

 鷲羽の長を訪れぬ。

 男あり。

 巫は炎の相と変じ、

 男の情に刃にて報いぬ。

 岩戸の民は巫を得るを得ず、

 勾玉はその光に長と巫を包みて

 祭の契りを寿ぐ。」

 

可知であった。

四つ足を踏ん張る如き姿は

今はない。

粗末な上っ張りのまま水干姿ででもあるかのように

そこに直った姿はさながら祭儀の場である。

 

「耳よ

 それでよし。

 おぼえ、

 とどめよ。」

 

神渡は

朔夜を抱き上げて凜と声を放った。

陶然とした朔夜の胸に灯がともる。

 

耳の語ったままに

勾玉は巫と長を光に包んだ。

 

「客人の方々には相済まぬ。

 潔斎のときが近づいている。

 われらはせねばならぬことがあってな。

 これにて失礼する。

 たづ殿、

 深水、

 あとは頼んだ。」

 

勾玉の翠が甘やかであった。

縁を踏み奥へと進み

長と巫はその場を後にし、

そして戻らなかった。

 

潔斎までの数刻、

日と月はその時を惜しんでいた。

 

 

イメージ画はwithニャンコさんに描いていただきました。

ありがとうございます。 





人気ブログランキング