この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。
カラリと引き戸を明け、
主は
中に入ることなく
脇に控えた。
「あとは
中の者が………。」
主は去っていった。
伊東ももう戻っただろう。
秘め事の里には既に十分な警備と固く閉じた口がある。
他所人は客人たる鬼とその連れのみ。
この里の習いだ。
飛び石の最後は
両脇に迫る竹に狭まり、
その特有な匂いが青臭く感じられる。
〝音は届かない。
そして、
洩れない〟
青く匂う守りが唆す非道を
主は思うのか。
そうだろう?
お前が見ぬものも
主にはみえているのさ
ここは鬼の栖だ
鬼になりにくるところだろう
〝花嫁のベールの白よ、
瑞月。〟
8月も終わり近く、
初秋から秋の衣料を調える仕立屋の一連隊を従え、
咲はそう言った。
建造された時代には
客人を迎えて華やいだ広間であったらしい空間でその布地を胸にあてた瑞月は、
まるで披露の宴に置かれた初々しい花嫁を見るようだった。
海辺の宿の暖炉の前、
二人だけで誓い合ったときの感慨が胸を満たし、
鷲羽海斗にとり、
幸せの一刻であった。
なぜ
この白なのか。
その揺るぎない誓いを信じているからだ。
そう思う端から込み上げる。
この純白を
染め上げるんだろう?
どう染めたい?
嘲りにも似た胸中の声は
闇の予兆ではない。
昨夏出会った瞬間に生まれ、
それが消えたことはなかった。
〝出掛ける〟
〝もう?〟
〝ああ〟
目をパチクリさせ、
それでも従った。
仕事があると思ったのだろう。
〝………………うん
おじいちゃんも待ってるもんね。〟
それには応えなかった。
屋敷に戻るとしか考えていない瑞月を着替えさせ、
車に乗せ、
ここに来た。
〝綺麗!
これ着るの?〟
ブラウスに目を見張り、
くるくると
まるで回りに女衆がいるように辺りを見回した。
この姿に上がるだろう優しい声を思ったのだろう。
〝ぼく
またお嫁さんになったみたい〟
〝綺麗だ。〟
それだけ答えて降りた。
伊東が待っていた。
顔が青白く感じた。
だが何も言わなかった。
後部座席に乗り込み
抱き寄せると
そっと瑞月に忍び入った。
無邪気に開け放した瑞月の心は
ほんのわずかの暗示で眠りへと向かう。
互いに融け合う今、
瑞月に隠すべきものはなく
海斗の隠すべきものは多かった。
だから学んだ。
融け合う恍惚の中でも
決して溶け出させない氷の柱を
海斗は持った。
いい子だ
お眠り
いい子だ
いい子だ
………………………。
そうして
瑞月は眠った。
食事も取らせていない。
鬼たちの多くが住まう都内から
さほどの時間はかからぬ隠れ宿に
こうして辿り着いた。
どうしたいのか、
それは
海斗自身にもわからない。
ただ、
鷲羽から隔絶したところでなければならなかった。
鷲羽に繋がるものの混じらぬ異界、
そして俗世からも隔絶した異界、
そんなところを
海斗は他に知らなかった。
二人、
この世にただ二人、
そう思い定めて契ったこの宿。
その引き戸は
ぽっかりと開き、
己を待っていた。
今さらながら、
そこに入る己の心が
どこか恐ろしい。
足が
すっと動くのを感じた。
入るんだ。
そうしないではいられないから
入る。
「ようこそ
おいでくださいました。」
静かな声が迎えた。
つつましやかな姿は
屋敷の女衆のそれを思わせる。
その顔が上がった。
普段、
鬼たちを迎えて見せる影に徹した顔はない。
セツはこの鬼を見定め、
そして微笑んだ。
神に近づくほどに
美しく、
強く、
それゆえに凄絶なまでに孤独な鬼が抱いた白く小さなものは、
この上もなく清らかな宝玉であった。
〝美しいこと
どこまでも美しいまま
お戻りになった〟
鬼の鬼たるところ、
人を離れ限りなく神に近い力を持ちながら惑う姿を、
セツは美しいと思う。
そう思えるほどに
ここは俗世に遠かった。
世に権勢を誇る〝鬼〟を気取る鬼らを迎える場にあって、
その汚泥を知り尽くしていたが、
その権勢を恐れるものは
ここにはない。
真に鬼たる者を迎える喜びがあった。
その惑いの名は〝恋〟。
鬼は恋に惑うて神とはなれぬ。
その惑いが美しかった。
イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。