この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





花の香は、なかった。
いや、そこには何もなかった。
己が何者かも、薄れていく。


突然、深い眠りの中に落ち込んだように
虚無の中に溶け込んだ何かが己だった。
ワシュウ ケイゴ チーフ   チーフ チーフ



 花が‥‥‥‥花が香った。


微かな記憶が僅かに意識の外郭に
爪をかける。
何だったろうか。

 花が‥‥‥‥香った
 俺の指先に花が香った

眠りに落ちたまま
腕が鈍く上がった。
その掌に
薄青く光る玉が乗っている。

西原は
その玉をつくづくと見つめた。





一歩踏み込み
作田は足を止めた。



乾いた床があった。
振り返ると、
ごく当たり前の玄関がある。


すぐ前にいたはずの西原の広い背も
綾周の華奢な背も
そこにはなかった。


森閑として静まる室内は無人だ。
入居を待つウィークリーマンションの空き室。
空っぽのそこに人の名残すらない。


いや、
廊下の先には開いたドアがある。
誘うでもなく、
ただ開いているそのドアだけが
それを開けた誰かを示して作田を招いていた。


踏み出す足に
床は固く応えるが
なぜか足音がしない。


靴下はだしの足裏は
音もなくそこを進む。



 これなら
 藤のお嬢さんたちの方がいいな
 綺麗だし
 わかりやすい


現実の外観をもちながら
虚構の尻尾が覗く
殺風景なマンションの幻影を作田は進んだ。



ひょいと覗く。


ピシッと白いシーツが敷かれたベッド、
カーテンはきっちりと閉められて
室内は薄暗い。
締め切った空間のもつ微かな黴臭さがある。


作田は足を踏み入れた。


ぐるりと見回す。
塵一つない。
そして、
侵入した作田の影は床に落ちない。



 えっと
 こりゃあ‥‥‥‥絵みたいなもんかな
 よく描けてる


“ソウスイ
 ソウスイ イトウデス

 オヨビニ ナリマシタカ”


小さな声が聞こえた。
幻影の一部にしては
その声音は
情が籠っている。


ドアに続く名残は
そこにあった。



床にポツンと転がっているそれは
くるんと丸くなった糸がついた数ミリもない直径の円柱だ。
拾い上げるとその糸はごく細いワイヤーと知れる。
絡み合うように、
もう一つの黒いものがついてくきた。

ごくごく小さなボタンが欠け落ちたような
黒いそれは丸みを帯びた突端が付いている。



“総帥
 総帥 総帥‥‥‥‥。”


手に取ると
声はむしろ小さくなった。


 まあ床はあるな
 反響が効いていた
 こうして俺も立っている


作田はそれを装着した。



「‥‥総帥
 総帥 伊東です。」


必死な声が懐かしい。



「作田です。」

「‥‥‥‥作田さん!
 総帥は?」


伊東の声が一瞬詰まり、
せき込むように問いかけが続いた。



「わかりません。
 
 このインカムは寝室に転がっていました。」

応えようがない。
答える自分の声は特におかしくはないが、
部屋の内装のすべては変わらずよそよそしい。


 影くらいは
 こう
 動かしてほしいな
 幽霊になった気分だ


伊東は
そっと寝室から抜け出した。
できる限り調度品から離れて歩く。



時間が止まってくれているなら
それなりに注意も払えたが
この部屋にあるものに見えないままぶつかりたくはなかった。



「何が起きているのですか?」

伊東は
もう落ち着いた声になっていた。



「不思議が起きています。
 私は留守番らしい。」

廊下に戻ると
何だか笑えてきた。


「留守番ですか。」

伊東が応える。



「留守番は二回目です。
 
 私も海斗君が戻るまで動きません。
 休暇の内に戻らなかったら父に危篤にでもなってもらいますよ。

 指示をください。
 西原君の代わりです。
 とりあえず
 ここには誰も入れません。」



イメージ画はwithニャンコさんに描いていただきました。
ありがとうございます。
☆イメージ画をお借りするのは先送り。
 とも思いましたが、
 ここはお借りしときます。
 石投げないでーーー



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