この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。







すんなりと伸びる腕
その先の細い指は花びらが開くように
何かを受けては溢す

回る
回る
氷を削る音が響いている。



 かなりのスピードだ
 見事だな……。


佐賀は心中に呟く。
橘少年は文句なくリンクに集う少年少女の中に
抜きん出た技量を示していた。
ただし…………。



〝食べずに
 やってきました

 だいじょうぶです〟

やってきたのだろう。
それは技量の高さに証明されている。




花は優雅な翼に変わり広がる。
そして
畳まれた。



シャーーーッ……。


少年は
くるりと氷上を回り
コーチに向き合う。




橘少年はぺこりとお辞儀し
スーーーーッ
佐賀に向かってきた。



「終わります。
    よろしくお願いします。」

「練習時間は残っている。」

「すみません。
    終わります。」


佐賀は
コーチに向けて手を振り
コーチも振り返す。



佐賀が付き添ってのリンク通いも
既に3日を過ぎ、
橘少年の練習時間は
毎回一時間を超えず終わっていた。



橘少年は
濃密な1時間を過ごす。
止まることなく次々と課題に向かい
コーチはただ判定を告げる。
〝よし〟
〝もう一度〟
どちらかだ。


もう一度と言われる限り続け
よしと言われるや
次の課題に向かっていく。



そして
その課題は橘少年が
迷うことなく決めていく。

言葉の不自由を味方に
橘少年はひたすら自分の思うままに
練習していた。

 


宮川を退け
リンクに現れたときから
橘少年は視線をぶらすことがなかった。





コーチらは安心し、
佐賀もほっとした。



時間の短さは
むしろ
ショックの大きさを感じさせたし、
それをコントロールしようとしているのかと
佐賀には思えた。

それが胸を痛ませもし、
いじらしくもあったのだ。



だが、
これは違う。
3日目を迎え、
リンクから上がる少年を見詰めながら
佐賀は思っていた。





昨日
起きているだろうか
今日も自らドアを開けることを予想しながらアパートを訪れると
階下のインターフォンに
〝降ります〟
声が響いた。



待つほどもなく現れた少年は
〝お願いいたします〟
頭を下げ、
カフェでは
別の野菜スープと
パンケーキを注文した。



〝眠れたか?〟には〝はい〟
〝朝食は?〟には
スマホが取り出され、
開いた画面に
シリアルに牛乳が映し出された。




前日に
佐賀が少年を伴ってスーパーで購入したものだった。
夕食はデリで少年の指し示した点心を
買って渡してあった。


食べ終えたらしき皿に
饅頭に張り付いていた紙が
残されていた。




佐賀は
練習を終えてから
幾つかの買い物に少年を伴った。
携帯はその一つだ。



〝緊急用だ。
    俺が連絡することはない。
    だが、
    俺の番号は登録しておく。〟

〝分かりました〟



佐賀は
自分の番号を登録し、
少年は
受け取った。



   さっそく使ってはいる
   喋る代わりにも
   使えるものだな……。



そう思った。
どこか物寂しい気持ちだった。




そして


今日も朝食の画像は
変わらなかった。
同じメニューが写っている。
が、
シリアルの袋は
昨日より小さくなっていた。


ちゃんと
2日とも食べたぞ
いうことかもしれない。





自分は部屋には入らない。
それは、
宮川の少年を踏みにじるに等しい行為に対する反発でもあった。




 俺は違う


浴室で目にしてしまった刻印を
佐賀は湯気に隠した。
見るに忍びなかった。


少年が
きちんと生活できている限り
その城に踏み込むつもりは毛頭なかった。



だが


こうして
ピンと張り詰めたように拒まれると
また胸は痛むのだ。



ハウスキーパーは
退室時に
連絡を寄越すよう契約した。
2日とも9時にはドアを開けられ
11時には食事の用意をし
掃除に洗濯を済ませ
退室している。


今日は
甘いものを頼まれたと言っていた。
英語は喋れないはずだが
尋ねると
少年は黙ってスマホの画面を示したという。


ケーキに
パイ
そしてプリン


少年はプリンを手に入れていた。





 ちゃんと
 食べている。
 時間も守れている。



だが、
このままでは
いられない。
一時間に満たない練習では
どうにもならないことが始まる。




ロッカールームから出てくる少年を
佐賀はロビーで待った。
簡単な打ち合わせはここでできる。

少年と話すなら
開放的な空間が必要だった。




少年が出てきた。


事務室に会議室
音響製作のためのミキシングルーム
吹き抜けの上にはリンクを抱いて
幾つかの部屋がぐるりを囲んでいる。


そして、
ロビーは吹き抜けに明るい。
天井部分に広く切り取られた天窓は
さらに空を切り取っている。


少年の髪は
その光を受けて輝く輪を頂いている。
バッグを肩にした華奢な体を包む
白いジャージが光に白さを増す。


光の中の橘瑞月は
どこまでも清楚だった。




少年が佐賀に気づいて
足を止めた。
テーブルについて待っていると
思わなかったのかもしれない。


少年にすれば、
後は
アパートに帰れば今日の務めは
終わるはずだったろう。


その務めに、
トレーナーと話すことは
入っていない。
もう約束の務めは十分に果たしていたからだ。





佐賀は
黙って前の椅子を指し
少年は歩き出す。


静かに座る。
佐賀を見つめる視線は
哀しいまでに真っ直ぐだった。


 こうして、
 この子は壁を築く。


佐賀は
その壁をまた高くする自分に嫌気がさしていた。
だが表情には出さない。



させなければならないことは
厳然とあり、
それができなければ
橘瑞月はここでの生活を失う。

それも
また
事実だからだ。





「振付をする。
 試合に出るなら必要だ。

 曲を決めなければならないし、
 今できる技を確認しなければならない。
 分かるか。」


するべきことは端的に伝える。



少年には後援がついている。
スケートに対する関心は希薄だが
後援の名目はアスリートの支援だ。

試合に出ることは
その名目には欠かせない。

後援するに足ると
証明する必要はある。




「はい」

眸は揺らがない。
実際
これまでもやってきたことだ。
分かっているのかもしれない。


だが…………。



佐賀は続けた。



「明日からは
 時間いっぱい練習する。
 夏のうちに振付を済ませるなら
 急がなければならない。」


少年の眸が
ふうっと暗くなった。



「練習が
 まだ無理なら…………。」

「だいじょうぶです。」



初日に倒れたこともあり、
クラブの指導チームは
橘少年の健康状態を計りかねていた。


そして、
佐賀は確信していた。

少年は
まだ長時間の練習には耐えない。
何かがあるはずだ。
そこに踏み込みたかった。




だが、
もう少年は眸を光に透き通らせ
何の揺らぎも見せてはいない。




スケート靴を入れたバッグを
胸に抱き締めた少年が
浮かぶ。

バッグは
この世と少年を繋ぐ一筋の糸のように思えた。



佐賀は
黙って立ち上がり、
橘少年はそれに続いた。


何かが起きるかもしれない。
無理なことをするのだから。

そう思いながら、
それを言わせることができない自分が
佐賀はもどかしかった。




そもそも感情の揺れを感じることもなかった佐賀は
〝もどかしい〟という感情を
今学んでいた。


胸は痛み、
少年の顔から目を離すこともできず、
そのくせ
そんな痛みを表に出すなどと
思うだけでもできなかった。


少年は
自分を拒んでいる


それが焦燥に身を焼く佐賀を
縛り付けていた。
たとえ焼き尽くされようと
少年が必死に守る結界に触れることはできなかった。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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