この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。
よし!
と
お尻が上がる。
25メートルは行ったかもしれない。
全力疾走の雑巾がけだ。
ぺたん
と
お尻が廊下についた。
メガネがずり落ち、
その眸が
キラキラと美しいのが
よく見える。
残念なのは
少々赤みが強すぎて
りんごの頬っぺという表現がぴったりな頬、
ずり落ちたメガネが斜めに鼻に引っ掛かっているフォルム、
この二つだろうか。
見た者は
笑い出さずにはいられない。
くすっ
というわけで、
開け放たれた襖の向こうから
その笑い声は響いた。
ピキッ
と
跳ね上がるように崩した膝は揃い、
背筋はそっくり返るほどに伸び、
その右手の指先は
くいっ
と
メガネを正しい位置に戻した。
「あっ、
ごめんなさい。
今日入ったんですよね。
俺は高遠豪。
ここの居候です。
一生懸命なんですね。
すみません。」
態勢を整えた綾子は、
くりっと
襖の向こうに振り向いた。
笑顔が
それを迎えた。
胡座をかいた片膝を上げていた高遠豪は、
正座の少女に合わせて
両膝を折り
きちんと正対していた。
「みっともないところを
お見せしちゃった。
笑ってくださいな。」
綾子は、
威を繕った。
生まれてこのかた
家族以外に人に笑われたことがないながら、
ここは潔くと
鹿爪らしく真面目な顔をしている。
「いや、
とんでもない。
えっと
雑巾がけは男でも
なかなかきついです。
ゆっくり少しずつで
どうですか?」
高遠豪は
笑いを引っ込めて
真面目に進言した。
「だって、
今まで見たお話では、
みなさん
それは一生懸命に走るように
なさってました。
お雑巾がけは、
しっかり端までたどりつかなくては。」
もう
この壁をどう越えるかに集中しているらしい綾子は、
豪には構わず小首を傾げながら
自身の思いを辿り出した。
「お話って
ドラマとかですか?
撮影は色々と切り貼りしてできてます。
役者さんたちだって
ちゃんと休みながらやってます。
だいじょうぶですよ。」
高遠の〝だいじょうぶ〟は
綾子を
振り向かせた。
目をくりくりさせている。
「だいじょうぶじゃありません。
お話が肝心なんですもの。
ちゃんと
たくさんお掃除できた皆様が
王子様と結婚してるんですから。」
真っ正面から豪を見詰め
綾子は言い切った。
おや?
と
その顔を見詰め返し
豪は立ち上がる。
スタスタ
と
綾子に歩み寄り、
膝をついた。
「な、何ですの?」
「ちょっと
いいですか?」
と
聞いたときには、
その両手は
メガネにかかっていた。
そして、
あっ
と
声が上がったときには
メガネは外され
豪は
つくづくと
その顔を眺めていた。
「やっぱりそうだ。
このメガネ、
度が入ってないですよね。
なぜ掛けてるんです?」
笑みを含んだ
優しい顔に
茶化すものは微塵もない。
まあ、
茶化されたこともない綾子に
その区別はつかないが、
自然に応える気にさせる温かさは
伝わる。
言葉は
素直に流れ出した。
「だって、
お屋敷の小間使いになるんです。
地味な装いは基本のキです。」
「いや、
それにしても
わざわざメガネで隠す必要は
ないですよね。
もったいない。
すごく綺麗です。」
豪は笑う。
うふふ
と
笑い、
綾子は手を差し出した。
その手にメガネを乗せながら、
豪は続けた。
「好きな人がいるなら、
見せてあげた方がいいです。
大抵の王子様は
あなたに見とれると思いますよ。」
自身は
見とれもせずに
爽やかに言い放つ。
この少年は、
自身が美に不感症となりつつあることに
気づくべきだろう。
「綺麗なのは知ってます。」
綾子はにっこりする。
自身の美に
男たちが微笑む情景を見たことがないお嬢様も、
三枝家の人々に応えるのと同じ調子だ。
「でも、
私は王子様に
私を好きになってもらいたいんです。
一生懸命頑張る私を
可愛いなって
思ってもらえたら、
本当の恋が始まるでしょう?」
高遠豪は、
ちょっと考えた。
「本当の恋って、
全部見せてから始まるものですよ。
綺麗な顔も
あなたの一部です。
言い直します。
見とれたから好きになるとは
限らない。
本当に好きになるときは、
やっぱり心です。」
綾子は
さらに考えた。
「一理ありますわね。
えっと………。」
「高遠です。」
「高遠さま、
ありがとうございます!
考えときます!」
綾子は
ぺこりとお辞儀し、
メガネをかけ直した。
「でも、
今はかけときます。
だって、
私は小間使いの綾なんですもの。」
高遠豪は、
その顔を優しく見詰め、
雑巾を取り上げた。
膝をついて
両手の幅に雑巾を動かしてみせる。
「走る必要はないです。
こうして、
少しずつ拭いていく。
その方がしっかり拭けます。」
廊下の幅を
そうして拭ききって
豪は
雑巾を渡した。
その様子をじいっと見詰めていた綾子が
今度は
その真似をする。
「ああ、
腕に体重を乗せてやるんです。」
また
高遠が雑巾を取り上げる。
少しずつ雑巾がけは進んだ。
「さあ、
できました。
どうですか?」
実質、
高遠豪の働きにより
その長い廊下は黒く光を濃くした。
「まあ、
綺麗!」
綾子は手を打って
はしゃいだ声を上げる。
「よかった。
これで、
さっきの失礼は
帳消しにしてください。」
バケツを持ち上げながら
高遠が笑う。
「失礼だなんてとんでもない。
えっと………………。」
「高遠です。」
「高遠様、
ありがとうございます!」
小間使いの綾は、
後始末をする高遠に
再びぺこりと頭を下げる。
意気揚々とお勝手に戻っていく後ろ姿を見送り、
高遠は小さくため息をついた。
王子様の正体は
既に分かる気がしていたが、
老人に確かめなければとも考える豪だった。
やれやれ
と
先行きを案じながらも、
ちょっと楽しんでいる自分にも
気づいていた。
いっそ
清々しいまでに一途な思い込みが
一陣の風となって
吹き抜けていく。
うらやましいな。
少女にとも
海斗にともつかず
そんな思いが
ふと
浮かんでいた。
画像はお借りしました。