成宮寛貴 引退の本質をゲイが冷静かつ客観的に読み解いてみた。 | さえずり短歌
2016年12月13日(火)

成宮寛貴 引退の本質をゲイが冷静かつ客観的に読み解いてみた。

テーマ:コラムと短歌
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 彼ほど人気、実力ともにトップクラスだった俳優が、突如として芸能界を退いた例を、僕は生まれてから他に見たことがない。
 
 事の発端は、2016年12月2日(金)発売の講談社フライデーが報じたスクープ。成宮寛貴がコカインを吸引しているとされる疑惑を、自称友人のA氏が写真付きで告発した。
 成宮側は事実無根であると主張。フライデーは、彼の潔白を信じるファンや他メディアから猛烈なバッシングを受けた。しかし翌週9日(金)発売号にも、A氏が録音したとされる肉声データの詳細を、続報として強気に掲載。彼の手書きによるコメントがマスコミ各社に送られたのは、そのわずか数時間後のことだった。
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 それはコメントというより、“叫び”のように見えた。夕方から週末に掛けて、ネットは彼の話題で騒然となっていた。
 僕は一人のゲイとして見過ごす事が出来ず、書店でフライデーを購入し、記事の一字一句に改めて目を通した。
 
 世間では、彼がセクシャリティを公にされてしまったことに同情が集まっている。一橋大学ロースクール学生の自殺報道も記憶に新しく、アウティング(本人に無断でセクシャリティを公にすること)の残忍さを改めて伝える発言が多く見受けられる。それには僕もゲイとして大いに賛同する。
 だが僕には、今回のスキャンダルの本質はそこではないと思えてならないのだ。
 憶測が憶測を呼ぶ中、僕は根拠のない噂の数々をあえて遮断し、フライデーの記事、彼の直筆コメント、そして僕がこの目で彼を見た印象だけを元に、成宮寛貴 引退の本質に迫ってみようと思う。
 
 
 確かに彼のコメントを読むと、フライデーによってセクシャリティを暴露されてしまったことが、引退を決意した引き金の一つであったかのように読める。しかし実際のところ、記事はあくまで薬物使用疑惑を報じるものであり、かじる程度しかセクシャリティについては触れていなかった
 
「クスリが効いてくると目がトロンとしてきて、やたらとカラダをすり寄せてきた。それを避けようとしても、『なんで嫌がるの?』とジリジリ迫ってくるんです。」
「『オレ、クサを使うとSEXしたくなっちゃうんだ』と言うから気味が悪くて……。」
「彼は僕が恋人であるかのようなウワサを共通の友人に流したんです。」
 
 セクシャリティに関わる記述はいずれもA氏による発言箇所のみ、しかも2日(金)発売号のみで、9日(金)発売号は薬物に関する話題で一貫されている。
「成宮寛貴はゲイだ!」とはっきり明記されているわけでもなければ、まして男同士でキスしている写真が載ったわけでもない。
 正直この程度の情報なら、しらばっくれることはいくらでもできたはずだ。薬物のことも含めて「A氏の証言はでたらめだ」とすればよかったわけだし、疑惑を疑惑のままにすることはできたはずである。
 例え男同士がキスしていても“友達同士でふざけてるだけ”で済まされるのが日本だ。この国に住む人々の多くは、どんなに疑わしい情報が揃っても「まさか本当にゲイであるはずがない」という固定観念を崩さない。特に、心の恋人でいて欲しいと願う女性ファンは、夢の世界にとって邪魔になる疑惑に耳を貸そうとはしない。
 その疑惑が事実となるのに必要なものは、ただ一つ。本人の肯定である。
 
 もう一度、彼のコメントを見てみよう。
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「全ての原因を作ったのは自分自身」としながらも、スクープの本題である薬物については一切触れられていないため、疑惑のままに留まった。本来ならゲイ疑惑についても同様に、触れなければよかったのである。
 それなのに、彼はわざわざ触れたのだ。

この仕事をする上で人には絶対知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい……」(原文ママ)

「この仕事」とは俳優業に他ならない。肯定こそしていないが、『ゲイであることを人に知られないように俳優の仕事をしてきた』と暗示していることは、誰の目にも明らかだ。
「人には絶対知られたくないセクシャリティ」だったにもかかわらず、成宮寛貴自身が疑惑を事実に変えたのである。事実の決定打を打ったのは、本人だったのだ。
 この矛盾にどれだけの人が気づいているだろうか。
 
 
 そもそも本当に「絶対知られたくない」ことだったのか、僕は疑問に思う。
 というのも、彼の言動はセクシャリティを絶対知られまいとしてきたようにはとても見えないからである。
 
 僕のようなオープンリー・ゲイはさておき、ほとんどのゲイは家族の前や学校、職場などで異性愛者のふりをしている。彼らは異性愛者のふりをしているゲイ同士で集うため、現実社会から半ば隔離されて発展したのが、新宿二丁目をはじめとするゲイタウンである。彼らにとって、公にゲイだとばれてしまうことは死活問題なのだ。
 僕は書籍の出版を機にオープンリー・ゲイとなる道を選んだが、それまで仲良くしていたゲイ達から軒並み距離を置かれてしまった。理由は、他でもない。僕とつるんでいると自分までゲイだと思われてしまうからだ。
 以前、売れない俳優と恋愛関係になったことがある。やけにインドアで、外に出かけたがらない人だと思っていたが、ある日「いっしょに街を歩きたくない」と面と向かって言われてしまった。恋人にまで拒絶されるなんて!と傷心したが、仕方がない。デートはお互いの家を行き来するのみで、その関係も長くは続かなかった。
 自分のセクシャリティの秘密を守るためなら、ゲイはいくらでも薄情になる。それだけ薄情にならなければいけないほど、セクシャリティはシビアな問題で、アウティングは脅威なのである。
 
 ところが僕には、成宮寛貴がそんな脅威を感じているようには見えなかった。
 僕は過去に、オフの日の彼を3、4回見かけたことがある。場所はいずれも都内某所、とある店の中と、街の通りだった。ちなみに新宿二丁目ではない。
 彼に抱いたのは「よく目立つ人だ」という印象だった。派手な柄の服に、足音の大きい重そうなブーツを合わせた個性的なファッション。それでいて眼鏡や帽子は付けず、変装をするつもりは更々無さそうだ。どこからどう見ても“俳優・成宮寛貴”であった。
 同時に、奔放な印象も抱いた。どんな店に入ろうが、どんな人と仲良くしようが、お構い無しといったところ。パパラッチにも「撮りたいなら撮れば?」と言わんばかりの、何にも物怖じしなさそうな風格。さすが人気俳優のオーラは眩しく、見る者を魅了するカリスマ性に溢れていた。
 
 だから、彼が「絶対知られたくない」ことだったと後悔している様子に違和感があった。
 多くのゲイがそうしているように、いつ誰が自分を見ていてゲイだとばれてしまわないか、もっと街中での言動に気を配るべきだったし、もっとシビアに交友関係を選り分けるべきだった。なにより、結果論ではあるが、フライデーにアウティングするような下衆な人間を側に置いていたのは、脇が甘かったと言わざるを得ない。
 
 
 ここで、僕はある仮説を立てた。
 
 確かに、“俳優・成宮寛貴として”は、セクシャリティは「絶対知られたくない」ことだった。僕の恋人だった人のように、墓場まで持って行こうとしている俳優は他にも大勢いるだろう。
 しかし、“人間・成宮寛貴として”はむしろ、この際セクシャリティをカミングアウトしたいと自主的に考えたのではないだろうか。
 
 僕が見た限り、彼はセクシャリティをなんとしても隠そうと躍起になるタイプではなかった。俳優としての仕事の建前上、「隠さなければ」程度には考えていたかもしれないが、それには相当なストレスがあったことだろう。
 直筆コメントを読む限り、友人の裏切りと度重なるプライバシーの侵害に、自暴自棄になった末のカミングアウトだったのだろうと捉える人が多いが、僕にはむしろ、芸能界引退後の生活に向けた選択であるように見える。だとすれば、彼自ら疑惑を事実に変えたことにも説明がつく。
 むしろ、カミングアウトするなら、タイミングは今しかなかった。今カミングアウトしておけば、今後一般人として生活する上で「成宮くんて結局のところゲイなの?」と、これ以上周りからしつこく探られることもない。案外「ああ、やっと言えた」と今頃少しだけ胸を撫で下ろしているかもしれない。
 
 ただ、なにより残念なのは、彼が既に芸能界を引退してしまったことである。
「複数の人達が仕掛けた罠」がどんなものであったかは具体的に語られていないが、友人の裏切りや度重なるプライバシーの侵害で、身も心も困憊しきってしまったことは気の毒でならない。
 しかし欧米では、ゲイやレズビアンをカミングアウトしているアーティストが、映画・舞台・音楽など様々な芸術分野で活躍している。セクシャリティへの理解が遅れているこの日本において、彼がゲイをカミングアウトした俳優の第一人者になってくれることを、僕は期待していたのだ。
 ゲイじゃない俳優がゲイの役を演じることがあるのだから、ゲイの俳優がゲイじゃない役を演じたって良いはずだ。彼の人気と実力をもってすれば、必ずその理解が進歩するはずだと思っていた。そして、彼ならいつかそれを成し遂げてくれると期待していた。
 けれど、こんなにもあっけなく引退を選んでしまったことが残念でならない。
 それとも、どうしても俳優を続けられなかった事情があるのだろうか。
 
 真相はまだ、闇の中である。