埼玉県川越市小仙波町 喜多院 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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神社仏閣を参拝しております。
休みを利用し、地方にも遠征をしております。

最近は、歴史上の人物の墓や著名人の墓参りが主に成りつつあります。
基本的に、神社仏閣巡りの方•墓巡りの方のみ承認します。
スピリチュアル系は、拒否しますのでご承知下さい。

中院より、喜多院に移動しました。

 喜多院には、11年前の七福神巡り以来の参拝です。息子が、甘酒を初めて飲んで甘くないいらないと言ったのを思い出しました。

 

山門(重要文化財)

 

太子堂

 

鐘楼門(重要文化財)

 

回廊

 

多宝塔

 

大黒堂

 

苦ぬき地蔵尊

 

慈眼堂(重要文化財)

 

慈恵堂

喜多院

平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁が天台宗の教えを東国に広めるために無量寿寺として開創したのが始まりとされる。当時の無量寿寺は阿弥陀如来を本尊として、不動明王・毘沙門天を脇侍として祀った。その後、平将門の乱や比企の乱によって、無量寿寺は衰退する。

その後、鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)に、伏見天皇が天台宗の川田谷泉福寺の中興三世の僧侶であった尊海僧正に勅願寺無量寿寺の再興を命じる。関東天台宗の本山とした。上代文学研究者の山野清二郎は、二度の蒙古襲来によって北条執権に対する不満が高まっており、承久の乱以来失墜していた朝廷・公家の権威と存在感の回復を示すためと推測している。また尊海は成田氏の助力を受け、まず仏地院(中院)を再建し、天台の教えを広めるためとして、1301年(正安3年)後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺すべての本山たる地位を与えられた。その後、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)を建立した。後奈良天皇からは「星野山(現在の山号)」の勅額を賜るが、戦国時代の後北条氏と扇谷上杉氏との間の河越夜戦をはじめとする約10年に及ぶ合戦において1537年 (天文6年)に炎上し、寺勢も衰退した。

慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。また、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、ますます隆盛を誇ることになる。なお、東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移る。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。

なお、永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは北院・中院・南院の3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。

「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。

越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主の廟もある。

 

御朱印