金戒光明寺より、2キロ移動し訪れたのは百万遍知恩寺です。
西門
後醍醐天皇の御代、元弘元年(一三三一)八月に畿内で大地震が起こり、それがもとで疫病が流行し、多くの横死者が出ました。天皇の勅命により当山第八世善阿空圓上人は宮中に参内し、七日七夜の念仏を修したところ功あって疫病が止みました。その念仏の数が百万遍におよんだことから「百萬遍」の勅号を、また弘法大師筆の大利剣名号の軸と五百四十顆の念珠を下賜されました。
総門 重要文化財
鐘楼 重要文化財
阿弥陀堂 重要文化財
釈迦堂 重要文化財
阿弥陀経石
円光大師(法然上人)記念塔
勢至堂 重要文化財
御廟 重要文化財
御影堂 重要文化財
知恩寺由緒
浄土宗をお開きになられた法然上人は今から約八百数十年前、百萬遍知恩寺の前身であり、賀茂の禅坊と当時呼ばれていた賀茂の神宮寺に住まわれました。そして都の人々に「念仏のみ教え」をお説きになられたのです。
建暦二年(一二一二)正月二十五日法然上人は入滅され、法然上人の直弟子である勢観房源智上人が師の恩に報いるためには「恩」を「知」らなければならないと知恩寺と名付けられました。
元弘元年(一三三一)第八世善阿空圓上人の時、地震がもとで都に疾病が蔓延しました。それに心を痛めた後醍醐天皇の勅命を受けて弟子らと共に七日七夜にわたって百万遍の念仏を称えながら大念珠繰りをしたところ疫病が治まったことから「百萬遍」の号が下賜されました。その後幾度かの移転を経て、江戸時代の寛文二年(一六六二)第三十九世中興の光譽萬霊上人によって現在の地に再興されました。
伽藍の中心的存在である現在の御影堂は第三十九世光譽萬霊上人によって寛文二年(一六六二)に建てられたものを第四十八世震譽知巖上人が宝暦六年(一七五六)に一回り大きくして総欅造りに改めたものです。
HPより
御朱印
以前いただいた、円光大師御朱印