神奈川県横浜市鶴見区鶴見 總持寺 アントニオ猪木墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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最近は、歴史上の人物の墓や著名人の墓参りが主に成りつつあります。
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スピリチュアル系は、拒否しますのでご承知下さい。

今回は、燃える闘魂アントニオ猪木の墓参りです。

猪木さんの現役時に、何試合か見に行きました。

 

 

 

 

アントニオ猪木とは

和・平成期のプロレスラー。本名・猪木寛至。昭和18年2月20日、横浜市鶴見区で猪木家の9番目の子供として生を受ける。1957年(昭和32)2月に一家でブラジルへ移住し、コーヒー園で重労働に従事するかたわら、陸上競技の砲丸投げや円盤投げで多くの記録を残す。1960年4月、ブラジルに遠征中の力道山にサンパウロでスカウトされ、4月10日に帰国し、17歳でプロレス界に入門。同時期に入門した馬場正平、2年前に韓国を脱国して力道山門下に入っていた金一と共に若手三羽烏とよばれて、早くから将来を嘱望された。1964年3月、力道山死後にプロレスリングの本場アメリカに武者修行の旅に出て、約2年間主要テリトリーで実績を積む。1966年3月、日本プロレスに凱旋帰国する途上で兄貴分だった豊登に勧誘され、新団体の「東京プロレス」に参加。エースとして活躍したが豊登のずさんな経営で団体は長続きせず、1967年4月に日本プロレスに復帰。その後は馬場との「BIコンビ」で日本プロレスの看板選手となった。1971年3月には人気女優の倍賞美津子と婚約するなど、スポーツ界、芸能界の両方から注目される存在となる。
1971年12月、日本プロレス内部の経理不正問題に巻き込まれて日本プロレスを退団。翌年1月に新会社「新日本プロレス」を結成して3月6日に旗揚げ興行を行った。1973年4月に日本プロレスから坂口征二が合流し、NETテレビが毎週金曜日に放送を開始してからは興行成績、視聴率共に安定し、それまでタブーとされていた大物日本人レスラーとの対決を次々に実現するなど、日本のプロレス人気をつねにリードした。1973年12月、アメリカの五大湖地区で権威のあったNWF世界ヘビー級選手権を獲得し、団体の看板タイトルとして定着させた。1976年6月26日、日本武道館で当時のプロボクシング世界ヘビー級王者だったモハメド・アリとの異種格闘技戦を実現し、15ラウンド引き分けに終わったものの世界的な話題をよび、知名度を国際的なものにアップさせた。
その後も異種格闘技戦の路線を継続するとともに、プロレスでもアメリカの既存メジャー団体を超えた「IWGP構想」を発表してタイトル化するなど、現在の新日本プロレス隆盛につながる基盤を構築した。
1989年(平成1)7月、参議院議員選挙に立候補し当選。プロレスラーとして初めての国会議員となり、2019年6月まで合計2期(12年)の重責を全うした。プロレスラーとしては1998年4月4日、東京ドームに7万人を集めて引退試合を行い55歳で引退。以降はプロレスと政界で築いた独自の外交ルートを生かして、北朝鮮をたびたび訪問するなど各方面で活躍した。令和4年10月1日、難病「心アミロイドーシス」のため死去。