神奈川県小田原市曽我谷津 城前寺 曽我十郎五郎兄弟・曾我祐信・満功御前墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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城前寺には、曽我兄弟・養父曽我太郎祐信、実母満江御前の墓があります。

 

 

 

曽我兄弟とは

倉初期の武人。父の仇を討ったことで名高い兄弟。伊豆の豪族河津三郎祐泰の子。兄は十郎祐成、幼名一万。弟は五郎時致、幼名筥王。1176年(安元2)父祐泰が伊豆の奥狩場で工藤祐経に殺されたのち、母が曽我祐信に再嫁したので曽我氏を称した。鎌倉幕府を開いた源頼朝の寵により勢いを得ていた祐経は、曽我兄弟を殺そうと謀ったが、畠山重忠・和田義盛らによって救われた。筥王は一時、箱根別当行実の弟子となったが、1190年(建久1)北条時政によって元服した。成人した兄弟は祐経をねらったが、仇討の機会がなかった。1193年5月、頼朝が催した富士野の巻狩りに、同行していた祐経の宿所をつきとめ、夜半風雨を冒して侵入し、祐経を殺して父の仇を討った。しかし兄祐成は宿衛の新田忠常に討たれ、翌日弟時致も捕らえられ殺された。

 

 

曽我祐信とは

平安末・鎌倉前期の武士。太郎と称す。桓武平氏の出自。相模曾我郷の住人。母は伊東祐家の娘。治承4(1180)年石橋山の戦で平家方に属したが、のち源頼朝に降参し本領を安堵された。曾我祐成・時致兄弟の母と再婚。建久4(1193)年富士の巻狩に加わり、継子である曾我兄弟の仇討ちのことで隠退を許され、死んだ兄弟菩提のため曾我庄の年貢を免除された。子孫は御家人として鎌倉・室町幕府に仕えのち武家故実家として知られた。北条得宗の被官だった一族は、陸奥津軽の地頭代として活躍。小田原市曾我に伝祐信供養の関東式宝篋印塔がある。