花巻より平泉に移動して来ました。
平泉での移動は、レンタサイクルを借りました。レンタサイクルは、電動1日1,200円・一般1日900円ということで迷わず電動を借りました。
平泉駅より、目的地の達谷窟毘沙門堂まで移動!
漕いでも漕いでも、向かい風でなかなか着かない!Googleマップを確認すると片道6キロありました。
なんだかんだで、25分くらいで到着しました。
二の鳥居
三の鳥居
毘沙門堂
岩面大仏
蝦蟆ヶ池辯天堂
鐘楼
金堂
谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺由緒
およそ千二百年の昔、惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を 拐さらう等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。
そこで人皇五十代桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に蝦夷征伐の勅を下された。
対する惡路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するとの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。
延曆廿年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・髙丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。
大将軍は、戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。
翌延曆廿一年(八〇二年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。
降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願のため寺領を寄進。
奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立したと伝えられる。
文治五年(一一八九年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。
中世には七郡の大守葛西家の尊崇厚く、延徳二年(一四九〇年)の大火で焼失するが、直ちに再建された。
戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火により、岩に護られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門ことごとく焼失した。
慶長廿年(一六一五年)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されてきた。
HPより
御朱印