静岡県静岡市清水区南岡町 梅蔭禅寺 大政・小政・仙右衛門墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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最近は、歴史上の人物の墓や著名人の墓参りが主に成りつつあります。
基本的に、神社仏閣巡りの方•墓巡りの方のみ承認します。
スピリチュアル系は、拒否しますのでご承知下さい。

清水次郎長の墓の近くに、子分の大政・小政・仙右衛門の墓もあります。

 

大政

 

小政

 

仙右衛門

 

 

 

 

大政とは

天保3年生まれ。尾張常滑の廻船問屋の長男。清水次郎長の一の子分となり、山本政五郎と名のる。慶応2年(1866)荒神山の喧嘩では、吉良仁吉らをひきいて穴太徳一家とたたかった。明治14年2月15日死去。50歳。本名は原田熊蔵。

 

小政とは

天保12年生まれ。遠江浜松の魚屋の次男。清水次郎長の子分となり、居合術を修業する。大政とおなじ山本政五郎を名のり、小柄なため小政とよばれた。慶応元年掛川で傷害事件をおこして逃亡する。明治4年清水にもどり、6年賭博罪で入獄。明治7年5月29日死去。34歳。享年を32歳とする説もある。本名は吉川冬吉。

 

仙右衛門とは

天保7年(1836年)、宮下佐次郎の長男に生まれた。父佐次郎は、戸籍の記載には「駿河国富士郡増川村百姓」とある。田畑持ちであると同時に、ばくち打ちの貸元、つまり土地の親分であった。
仙右衛門が36歳の時、縄張争いのことから、父佐次郎が、伊豆の金平親分の子分、竹之助、民五郎、力松、亀吉ら17人に襲われ、殺害された。金平というのは、「東海遊侠伝」にも登場する人物で、石松をだまし討ちした吉兵衛の味方、つまり次郎長の敵であり、沼津から船に乗って清水を襲撃しようとしたことがある。この時は次郎長に一喝されて逃げ帰っている。
父親を金平一党に殺されたとき、仙右衛門は、伊豆の子浦にいたが悲報を聞いて増川村に帰った。仙右衛門は決して腕の立たない男ではない。伝えるところによると、清水一家の中でも指折り数えられる一刀流の使い手という。同じ増川村に松下又右衛門という韮山代官の下役をつとめる人物が道場を開いていたので、そこに通って腕を磨いた。この一刀流修行のことと、佐次郎の子分、辻勝こと今泉の勝五郎とともに、父の仇を討つことは、今では稀覯本(きこうぼん)となっている「実説次郎長物語」に記されている。