京都府京都市東山区清閑寺霊山町 霊山墓地 木戸孝允墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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霊山の山頂に、木戸孝允夫妻の墓があります。

木戸孝允と言うより、桂小五郎の方がしっくりくる来ます。

変装の名人で、逃げの小五郎と言われていたそうです。

 

木戸孝允とは

幕末・維新期の政治家。旧長州藩士。大久保利通、西郷隆盛と並ぶ「維新三傑」の一人。天保4年6月26日、同藩士和田家に出生。7歳で桂九郎兵衛家の嗣子となり、通称を小五郎と称したが、1865年(慶応1)藩主から木戸姓をもらい、貫治、準一郎と改め、松菊と号した。1849年(嘉永2)吉田松陰の門弟となり、その後、江戸に留学、また江川太郎左衛門から洋式砲術を学んだ。1858年(安政5)以降、安政の大獄後の状況のなかで、自藩をはじめ、薩摩、水戸、越前諸藩の尊攘派の志士と広く交わり、尊王攘夷運動に奔走した。1864年(元治1)禁門の変(蛤御門の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走したのち、高杉晋作らの長州藩討幕派が同藩の実権を掌握すると帰藩し、諸藩と折衝する過程で、1866年薩長同盟を締結することに成功。以後、討幕派の一代表として活躍した。

 幕府倒壊による明治維新の実現後、政府官僚として太政官に出仕、参与、総裁局顧問などを務め、由利公正や福岡孝弟らと「五か条の誓文」の起草に参加した。さらに1870年(明治3)には参議に昇進し、版籍奉還、ついで廃藩置県を通じて、統一政権の成立に指導的役割を果たした。また1871年には、特命全権大使岩倉具視が率いる米欧遣外使節団に大久保利通、伊藤博文らと加わり、外国の政治、経済、軍事などの諸制度や施設を視察した。1873年帰国後、岩倉、大久保らとともに、西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け、下野させた。しかし、この直後に成立した大久保の独裁政権には批判的立場を示し、政府の支配体制の枠内で啓蒙官僚として行動した。1874年の台湾出兵に反対して一時参議を辞任したこともあったが、翌年の大阪会議では大久保らの政府主流派に妥協して、再度、参議に復帰した。その後は地方官会議議長に就任し、また内閣顧問に転任したこともあったが、このころから、病気を得て要職から退き、西南戦争の最中、明治10年5月26日京都で死去した。

 明治国家の成立の過程で、最初の絶対主義政権の形態をとった岩倉―大久保体制内部にあって、木戸の意識と行動はその開明的立場を代表する側面を示していたが、状況を展望する政治的資質においては明晰な大久保の能力に劣っていた。