昨日自転車で大変な目に合いかけた。


訳あってリアタイヤの中に太めのチューブを入れていたがそれが原因。私自身は細めのタイヤと太めのチューブはそれほど相性悪くないと思っていたが、走行中にリムとタイヤの間からチューブ がはみ出してきて、路上で緊急修理。先日のパンクのお陰で替えのチューブや工具は持ってたので助かった。


とは言え、その後は不安で不安で仕方なかった。小さな段差も細心の注意を払い、スピードも控えめで、何とか60km超えの道のりを乗り切れた。


そんな経験をしながら不安について考えてみた。


今回はセッティング自体を見誤っていた。つまり信頼できるセッティングでないことが判った途端に不安が押し寄せてきた。信頼できない時に人は不安を感じるのかもしれない。


しかし、多くの不安症の人たちを見てきて、彼らは信頼できないからではなく依存できないから不安を抱えているようにも感じた。先程の私の経験で例えれば、私自身が信頼できるセッティング調整を行っているか、信頼できるショップでピッチ調整して貰えば差ほど不安は感じないだろう。しかしどんなに慎重にセッティングしてもトラブルは起こるし、避けれない。一つ一つ対処するしかない。一方で絶対にトラブルを起こさないセッティングでないと不安で自転車に乗れないと感じる人はどんなに高価で頑丈な自転車でも不安は消えないだろう。そんな彼らが乗れる自転車は信頼を越えて心が依存できる乗り物ではないだろうか?


不安は私にとっては学びの素。なので不安であることは有り難い。不安があるから様々な学びを得られる。人として成長できる。一方で不安な心を他人や物事で 癒やそうとする人は不安から逃げようとして依存先を探し続けて行くのだろう。それ自体が生き辛さではないだろうか?


不安は私の先生。仲良く学べば様々な事を教えてくれる。今回の経験も有り難いものでした。