IQ130以上ある発達特性の強い人たちをギフテッドと呼ぶことがある。


おそらく私もその一人だと思う。


知能が高いが故にハードルが上がりすぎたり、他人が気づかないことに気づけてしまったり、社会での協調から逸れてしまうことも多い。なのにそこに対しての支援は皆無。


私も小学生の頃にカンニングの疑いをかけられたことがある。


計算問題をクラスで一番に終えるのが私には普通だったが、クラス替えで代わった担当教師からカンニングしていると指摘された。先生のお気に入りの頭の良い生徒より速くできる訳がないと。でも、誰も終えていない問題をどう盗み見したというんだろうね。


さて、これまで私はギフテッドという言葉を極力避けていたが、その理由を以下に示してみる。一つは自分自身の能力をひけらかすようで憚ってしまう。そしてもう一つは、私にとって発達障害による困り事も特殊な能力も、両方合わせて神からの贈り物だと考えている。


が、しかし、一方で、そういう子供たちを指導する中で、私の一つの使命のようにも感じだした。


人権意識が高いヨーロッパなどでは彼らの能力を活かそうと専門教育を試みたこともあったようだが、曲がったエリート意識を植え付ける結果を招きやすかったようだ。


正直にいうと、私自身も3才頃の記憶で大人は馬鹿だから 大人になりたくない、なんて思っていた。私の周りのギフテッドの子供たちもおそらく同様の意識があるようで、ついつい大人を見下すことがある。そういう態度が周りをカチンとさせ、孤立を招いて行くのだと思う。


相対性理論をうち立てたアインシュタインが落第を経験しているのは有名な話しだが、その裏には上記のようなものがあるように思う。全くのコミュニケーション障害だと考えられる彼もギフテッドだったんだろうね。


やはり、 ギフテッドの子供たちの能力を伸ばせるのは同様の人種でないといけないのではないだろうか?見下しようにも見下せない大人たちの存在が必要な気が私にはする。


そんなところから今回の投稿になった訳だが、私自身はおよそ一ヶ月ほど前から記事にしようか悩んでいた。自信よりも恐怖が上回っていた。


今回記事にできたのは心が定まった訳でもなく、取り敢えずアップして、気が変わったら削除しようかな、という気持ちが強い。なのでいつまでこの記事にたどり着けるか判らないが、暫くギフテッドというキーワードで更新していくつもりです。