昨日は私自身の心の囚われ、つまり不自由さについて述べました。不自由が故に自由に憧れるのだと。


一般的な概念として自由は善で不自由は悪、というものが存在すると想うがいかがでしょう?私自身もこの概念への囚われが強かった。が故に解放されなかったと思われる。


禅の世界では全てのものに善悪があると考えるようだが、自由にも善悪はあるのだろうか?


では、完全な自由とはどういうものだろう?何を言っても何をしてもよい、それって只のカオス、つまり無秩序な状態でないだろうか?でもこれは自然そのもの、弱肉強食という無秩序の中に人が社会という秩序を作っている、それが真の姿ではないだろうか?


つまり自由=無秩序


でもそれではいつも生命の危険にさらされることになる。誰に殺されても咎めることができないのだから。だから先人たちは文明や文化といったものを創造し一定の秩序をもたらした。皆が安心できるように互いに一定の不自由を受け入れようというもの。


つまり不自由というのは何かの見返りがあるもの、といえないだろうか?


スネ夫はジャイアンの子分になりパシリに使われるという不自由を味わう一方でジャイアンみ守って貰えることでのび太をからかったりできる。


ジャイアンはスネ夫が危ないときは怪我する覚悟ででも助けてあげないといけない。他人の自由を奪う代償を支払う必要がある。


以上は日米関係と似たものかもしれない。


現在では基本的人権というもので最低限度の自由を認める一方で法による支配、つまり法への服従を求められる。法に服従することで法に守られる権利を手に持つことができる。


そして選択的自由というものも選択ができる。良い賃金の報酬を得たいならそれなりの過酷な労働を強いられる、というものがその代表例だろうか。


実は、自助会での困り事の多くは、不自由は嫌だがその恩恵は手放したくない、といったものだと考えている。


そして、そう言う私もその渦にはまっていたことに気づけなかったのも事実。


今回、全身麻酔から解けた後の不自由な一晩を経験したことで気づかせてもらえた気がする。


心に真の自由を宿しているものは不自由への感謝も持ち合わせていることだろう。今の私には到底到達できない領域。いつかは持ちたいもの。


見つかっただけでもありがたいもの。