全身麻酔から解けて 病室に帰ってから絶対安静、絶食は前夜からなお継続、ギブスで固定された左手はもちろん、24時間体制で続けられる点滴が右手に刺され両腕共に不自由状態。排尿も病床の上でしないといけない。


全くの拘束状態。


若い頃から自由人と言われた私。拘束を何よりも嫌う。そんな私がこの拘束状態で心に強いストレスを抱えながら、しかし拘束に従うしか選択肢がない中で、何故自身が拘束に強いストレスを感じるのか向き合ってみた。


昔の洋画でよくあった話しだが未開の地の住民たちは西洋人の武器を知らないことを利用して何かを行うというシーンがふんだんに見られた。


銃というものを知らなければ銃の怖さは判らない。


きっと私が自由を求めるのも不自由の怖さを学習したからでは、という仮説が生まれてきた。


そんなところから深掘りしていくと、実は私は不自由な人間のような気がしてきた。不自由だからこそ自由を求めるのかもしれない、と。


今回は病室で私が健康で自由な生活を取り戻すための一時的な不自由な状態、だと理屈では判る。一時的に我慢したらよいだけ、なのに、何故か心の不自由さまで感じてしまう。丸で自身の価値観までも否定されたかのように。


そこまで考えると不自由さへの怖さがだんだん理解できてきた。不自由さには身体的と心理的なものが存在する。私は身体的な拘束を感じると身体的な拘束感を同時に強く感じてしまう特性が強いようだ。そこを切り離せばよい。


感情は受け入れ、理性で抑制する。


これまた私が多くの人にアドバイスしてきた言葉だが、これを自身の不自由さへの怖さに対処させればよかっただけだった。


きっと心の中に真の自由を宿している人は身体的や物質的な自由をそれほど強く求めないだろうし、多少の身体的不自由は簡単に受け入れられるのだろう。


私の心は実は誰よりも不自由だったからこそ自由への強い憧れがあったようにさえ思えてきた。


こんなことを考えている。と少しずつ不自由さから心が解放されるのがわかってきた。同時に身体的拘束へも少しずつ受け入れられだした。


同時に不自由さが悪いだけのもののようにも思えなくなってきた。ただ、その辺りは別の機会に触れようと思う。


きっと自由に強い憧れを抱く人は私と同様に実は心が不自由なのではないでしょうか?


私個人の感想としては自身の心が不自由だということを認められない不自由さが自由を遠ざけていたように想います。