自助会を開いていると発達障害と拘りの強さの関係がよくテーマにあがる。


どんなものにでも長短は必ず存在するので拘りというものにも善悪の二面性は存在するだろう。


良い例としてはスポーツ選手たちの拘りがあげられるかもしれない。先日訃報が届いたばかりの元南海ホークス主砲の門田さんは選手生涯をホームランに拘ったそうだ。アキレス腱断裂や様々な怪我、晩年は糖尿病を患うなど、 多くの代償を支払いながら拘り続け、日本球界三番目の本塁打記録を残した。


彼に限らず歴史に名を残す人たちは何かしらの強い拘りがあるのだろう。


自助会などでも自身の拘りを自慢げに話す人も多いが、それを周りが理解してくれない、拘りが原因で人間関係を築けない、なんて発言をする人たちは後を絶たない。


私は拘りというものを2つの方向から考える。その1つは視野の狭さ。拘りが強い人の多くは他人の考えに排他的であることが多い。他人の意見に耳を貸さずに人間関係を良好に保つなんてどう考えたって無理じゃない?他人の意見に従えとは言わない。しかし、この世に様々な考えが存在することは尊重すべきでないだろうか?私自身は拘りを感じるとき、自身の視野が狭くなっていないか考えるようにしている。


もう一つの方向は自身の拘りに責任を持つこと。自身に拘って被った不利益は自身で解決する。それが嫌ならそんな拘りは捨てる。そう自身に言い聞かせている。


自身の拘りを他人に押しつける人も多く見てきたが、他人のことにまで責任などそうそう取れないので、他人を縛るなんて止めた方が良い。そもそも他人を縛りつけるスタンスこそが人間関係崩壊の絶対的な原因だと思うんだけど。


そう言う私にだって拘りはもちろんある。いや、世間一般では拘りが強い部類に分類されるのだろう。でもね、自分の拘りで自分が迷惑するのは大歓迎だけど他人の迷惑になるようだったらそんな拘りとっとと止めるつもり。気づかずに迷惑かけてる場合もあるだろうけど。


自身で拘りが強いと思う人、もう一度その辺りを考えてみてはいかがだろう。私の意見に耳を傾けられない拘りだったら更に孤立していっちゃうよ。