先日、自衛隊での訓練の映像を見た。取材先は信太山駐屯所、そこは私の住む街にある自衛隊の施設。月に数度はその施設の廻りを通るくらい昔からある私たちにとっては当たり前の場所。今でも実弾演習も行われているのだとか。


そこで訓練生による25km歩行訓練が行われていた。それも15kgもの荷物を背負いヘルメットに迷彩服の重装備で。


途中で熱中症で歩けなくなる隊員がでる。休ませて水分を取らせるがリタイアはさせない。回復すればまた歩き出す。


後半では千鳥足のようにふらふらになりながらでも皆歩く隊員が続出。それでも仲間で支え合って時間内に皆ゴールできた。


何故そこまでするのか?


そこは何も触れられなかったが、きっと生きるか死ぬかの訓練という意味合いでやっているからのように思われる。


自衛官たちは紛争地や災害救助、もしかすると外国の軍隊との戦いに出て行くかもしれない。熱中症で動けなくなる時点で生きていけないような過酷な任務ばかりなのだろう。


そして、彼らの姿そのものが生きる姿のように私には映った。


私たちは悪いことさえしなければ幸せに生きていけるのが当たり前、のような妄想をついつい持ってしまう。


今現在でもウクライナの市民たちは居住地を追われ、家族が分断され、大怪我を負わされ、多くの命が奪われている。犯罪を犯したわけでない善良な市民が。


災害も同じである。いつどんな災害が来るかわからない。特に地震は。


そんな時にしんどいから歩けませんで誰が助けてくれるだろうか?皆自身が助かるだけで必死なときに。


生きるとはどんなことがあっても自分で生き延びられる備えをすることではないだろうか?


災害時では水と食料は1週間ほどで多くは供給される。逆に言えばそれまでは自身の安全と食料はどうにかしないといけない。


現在の私はスポーツとアウトドアを存分に楽しんでいるが、これらは上記のような不測の事態にとても役立つ。楽しみながら備えている。


ネットなどでは自身に向き合わず生き辛さの不満ばかり吐き出している人たちをよくみかけるが、本当に前向きに生きようとしているのか?私には到底そうは思えない。助けを求めても手を差しのばして貰えないことに憤っているように見える。


まあそんな人のことはどうでも良い。私はこれからも一所懸命に生きる毎日を繰り返していくだけ。


皆さんにとって生きるってどういうことでしょう?改めて問い直してみては如何でしょう?