努力は人間に与えられた最大の力なり


中学時代に陸上部の合同トレで元オリンピックメダリストの君原健二さんが我が中学に来られてその時に頂いた色紙の中の言葉、それが上記の一文だったと思う。あの色紙、どこに行ってしまったのだろう?


私は社会活動に多く関わりだしてから自身の中に最大の力があることに気づいた。それは君原さんに教わったからではない。野球キチガイ(言葉は不適切かもしれないが見逃してください)だった父と毎晩のようにキャッチボールや素振りをして、毎日のコツコツとした努力が如何に大切かを思い知った。


気の遠くなるような時間をかけて同じことをひたすら繰り返す、一見全く非効率に見えるこの作業が実は最も効率的なのだと今は判る。


社会で孤立する多くの者はこういう経験が皆無に見える。彼らは口々に自分は努力している、と主張するが『目に見えない努力の存在』すら知らないのだったらたった1日走っただけでも努力したと言い切れるのだろうね。


コツコツとした努力は社会評価に直結する。結果を残さずとも直向きなスタンスだけでも人間性を肯定されやすい。努力を続ければそれなりの自信がつく。


しかし、今回私が述べたいのは別の側面である。努力量は受容度にも大きく影響する。


努力は必ず実る、そんな風に言われがちだが、努力すれば誰もがイチローや北島康介や南野拓実のような存在になれるだろうか?もしなれるとすれば、彼らは既に特別な存在でなくなる。皆それぞれに最大限の努力を払ってもたどり着けるものとそうでないものは現れる。理不尽にも感じる。


しかし、自身を信じて努力し続けた者が『自身が辿り着けないことがある』と知ったとき、人は初めて諦めを知るのではないだろうか?これはある種の悟り。諦めは自己を受容すること。自己を受容できないものが他人や社会を心の底から受容できるだろうか?


社会孤立するもののほぼ全ては自分ばかりが損をしていると言った風に他人や社会を敵視している。自分は何も変わろうとせずに他人や社会ばかり変えようとしている。努力しないから周りからも評価されない。だから周りが敵ばかりになってしまう。


自身を信じて努力すれば、うまく行けば社会的な評価が上がる。努力し続けても結果が伴わなければ受容度が高まる。


アドバンス的には受容度が高まるほど努力の楽しさが理解できるようにもなる。好循環ですよね。


本当のコツコツとした努力とはどんなものなのか?わからないというのなら、私の塾か自助会に来てみてください。ヒントくらいは持って帰れるかもよ(因みに塾は大人もオッケー)。