昨日は野球チームの仲間との食事会。コロナ禍がやっと落ち着いてきたんでね。でも他の人もきっと同じなんだろう、泉北の田舎駅の周りも人がいっぱいだったね。
気の合うメンバーで飲んで食べると会話も弾むし酒もご飯も美味しい。でも、美味しさって不幸の始まりでもあるんだよね。
先日、お昼ごはんにスーパーのお弁当を食べた。その前の夜の見切り品で半額だったやつ。
鯖煮込みは美味しかったけど白米がパサパサでどうやっても美味しいとは思えなかった。私は味にはどちらかと言えば無頓着で不味くて食べられない食事というのはほぼ存在しない。その私が美味しくないと思ってしまった。と同時に農家さんや調理員さんたちに申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
味というのは主観性が強く、人によってまちまち。同じ物を食べても人によって評価が真逆なことがよくある。
では、なぜ人は美味しいとか不味いとか感じるのだろう?私の場合、白米はふっくらもちもちで温かいという先入観がそうさせているように思える。つまり、白米を見ただけで美味しい状態を想像している。言わば自分でハードルを上げているのと同じ。自分が思っているのと違う食べ物だと思えば良いのにそう思えない。
これって幸不幸の感じ方と同じじゃないだろうか?自分が思い描いた状態をデフォルト設定しておいてその状態よりも低いから自分は不幸だなんて言う人が実に多い。
お釈迦様も不幸というのは心のものさしであって心の囚われが原因だと仰っている。囚われとは拘りとも置き換えられるはず。
味にうるさい人って自身の思い描いた美味しさじゃないと不平を言ったりするが、その時点で食べられる幸せを放棄してせっかくの食べ物に感謝せずに捨ててしまったり、その時点でその人って不幸だと思わない?
引き寄せ法則のようにわざわざ心を不幸にしている人って不必要な不幸まで呼び込んでると思いませんか?
たとえ粗末なものでもその日食べられる食事があることの感謝と喜びを感じられる人ってそれだけで心が裕福ですよね。先日の私はやはり修行が足りないのだなと反省しました。ま、反省できることも幸せだけどね。
味への拘りだけでなく普段から不平不満が多い人って自分で勝手に思い通りの状態のハードルを上げまくっていることに気づかない限り不幸の連鎖は断ち切れないと思うよ。
私自身もパサパサご飯ともっと向き合わないといけないね。