自助会を開いていて自分に自信が持てないという人によく出会う。私にしてみればそんなの自信持てなくて当たり前じゃない?と思える人ばかり。なので今回はそのあたりについて述べます。
全く泳げない人に『自信を持って泳げ』と言って25mプールに送り出すともしかすると向こうまで辿り着けるかもしれない。しかしビーチから見える島に向かって同じ言葉を投げかけるとどうなるか?もはや殺人まがいの事態になってしまう。
自信とは私にとっては、『予測』や『見通し』のようなもの。何度も経験していることは予測も見通しも立てやすい。そういう状態がが私にとっての自信のある状態である。
プールで1500メートル泳ぐことは私にとって何度も経験していることなのでその日の体調と照らし合わせてどれくらいのタイムなら行ける自信があるか見通しが立つ。
しかし、海で同じ距離を泳げと言われると見通しは立て辛い。海で遠泳の経験が殆ど無い。こういう場合は似た経験を基に見通しを立てる他ない。プールではそれくらいの距離は泳げるので海でも全く問題ないとは言えなくてもそこそこの見通しは立つ。絶対的な自身ではないが、まあ大丈夫だろうという予測=自信のようなもの。
まさに現在の私は夏のレースに向けてこの状態なので少しでも自信が深まるように海でのトレーニングを積んでいる最中。海では距離が測り辛いのである目標までの往復の時間を測り、その時間から距離を概算し、その往復数を毎回増やしながら対応している。レース前には実際のコースでも泳いでみようと考えている。
仮に全く泳げない人が『自信あります』といったところで誰が信用するだろうか?根拠のない自信は周りの迷惑にもなり兼ねない。
自助会で多く出会う人たちは周りの人ができていることなら自分も自身を持ってできるようになれるはず、そんな全く根拠のない自信にすがりつこうとしているように見える。
幾ら周りの人ができたってあなたができるようになるには努力が必要。その努力を怠って自信を持とうたって持てないのは当たり前。中には、『私は誰より努力している』と言い張る者もいるが、先の例で考えるといくら努力しても長い距離を泳げなければ自信を持てるわけがないよね。
自信は予測または見通し、これらを持つには何度もやりきる努力と経験が必要。やりきれない努力では残念ながら自信など持てる訳がない。