先日は二色浜で存分に泳いで、そんな中で気づいたことがあるのでお知らせします。
入水前は実はちょっとビビってたんです。『溺れないか』なんかじゃありません。『周りから不審がられないか』という気持ちが強かった。もちろん、本当に泳げなかったら格好悪いけど。
で、泳ぎだしてSUPやセーリングをしている人たちと話したり、岸に上がってからも主観ではあるが不審な視線は全く感じなかった。寧ろ遠目でもウエルカムな雰囲気に感じた。これは正直なところ予想外だった。
夜、家に帰って思い出してみるとわかる気がしてきた。ビーチにオッサン一人でやってきて何度も沖目のブロックまで行き来して、もちろんフィンやシュノーケル着けて海と戯れるのじゃなくて、ゴーグルも競泳用で、キャップこそしてなかったけど途中からはクロールでガンガン泳いで、って誰の目からもトライアスロンの練習かそれ以外だったらライフセーバーくらいしかそんなことしないもんね。
海開き前のビーチで、誰かが溺れたとしたら、多分多くの人が私に助けを求めるかもしれない。周りには私がエキスパートと勘違いしてる人が大勢いただろうし。
つまり、困った時に助けてくれる人って頼りになるよね。実際には私には他人を助ける力なんてない。自分の命だけで必死。でも自分の命は自分で守りたい、そう思ってトレーニングしている。
タイトルにも上げたように『信頼されたい』『頼られたい』『困っている人を助けたい』と思うなら、せめて自分のことはどんなことがあっても乗り越える覚悟がないと誰もそんな評価をしてくれるわけないよね。
残念ながらそういう願望を持つ多くの人は自分のことさえ一人前に出来もしないのに、そういう自分から目を背けるために他人に構いたがる。だから調子のいいときだけ利用されて本当に困った時に対象外にされてしまう。
私自身は人助けのためにスポーツをしている訳でない。できるだけ自立できるようにスポーツも学習も自助活動もしている。実際には自立なんてできないし、自立できない自分と向き合いながら少しでも自己を確立したいと毎日に集中している。だから社会の中で少しではあるが役割を与えられているんだろうね。
人のことに構う暇があったら自分自身との向き合いを逃げずにした方が、結果的に評価されやすい、私はそう思うんだけど。